夕陽に赤い町中華

北尾トロ



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町中華はどこから来たのか
「人形町大勝軒」にみる戦前からの流れ(1)

創業大正2年の支那料理店

僕は、町中華は第二次大戦後に発生し、高度成長期にかけて定着していった、戦後生まれの大衆的な中華食堂だと考えている。漠然とした捉え方になってしまうのは、我こそ元祖であると主張する店がないことや、町中華的メニューを開発してスタイルを完成させたカリスマシェフが見当たらないからだ。町中華は特定の食べ物の名称ではないし、厳密な定義もないので、これといった記録が残っていないのは仕方のないことだと思う。

でも、何もないところから自然発生したわけじゃないだろう。どこからきて、どういう経緯で町中華という不思議な食のジャンルが出来上がっていったのか、自分なりのルーツ探しを敢行してみたい。

そう考えて、ここは外せないと思ったのが、中央区日本橋人形町にある大勝軒(のれん分けした店があるので、以下、大勝軒本店と記す)である。つけ麺を思い出す方もいるだろうがまったくの無関係。こちらのほうがはるかに歴史が長い。創業1913年(大正2年)。つけ麺という食べ物が影も形もない頃だ。

中華料理を提供する店はそれ以前の明治時代からあったけれど、高級路線から大衆路線に方向転換した成功例となると、あまり聞いたことがない。東京ラーメンの元祖と言われる来々軒は1910年(明治43年)に開店し、いまもその流れをくむ店が祐天寺に残っているが、町中華というよりはラーメン屋という呼び方が似合う。

大勝軒本店は1986年に閉店し、現在は『珈琲 大勝軒』として営業中なのだが、のれん分けした店が数店舗営業しており、”ザ・町中華”の雰囲気が味わえる業界の老舗チェーンとしてファンも多い。現存する町中華で、店の歴史を大正時代まで遡れるところは他にもあるかもしれないが、大勝軒本店は東京における町中華の源流の一つと考えて間違いないと思う。

僕は数年前、町中華探検隊を一緒にやっている下関マグロの案内で『珈琲 大勝軒』に行ったことがある。おおげさでなく度肝を抜かれた。店内に飾られた筆書きの屋号が、あの乃木希典大将の手によるものだったのだ。昭和初期に撮影された写真もあって、そこには”支那料理”と書かれていた。

左端のサインに注目


ただ、そのときは僕もマグロも町中華のルーツのひとつを発見した喜びに興奮するばかりで、詳しい話を聞かないままコーヒーを飲んで店を出てしまった。その後、のれん分けした三越前の大勝軒に行き、間接的に歴史の一端を知ることができたが、本店へはそれ以来足を運んでいなかった。何度も行きかけたのだけれど、そのたびに「まだ早い」という心の声が聞こえたのだ。いまある町中華を自分なりに食べ歩き、ある程度理解してからでないと、創業100年超の重みを受け止めきれない気がしていた。

でも、僕も町中華探検を始めて4年目。話についていける自信も少しはできた。機は熟したと心の声が言っている。

広東省からきた料理人、林仁軒さん

「昔のことだから記録もほとんど残ってないんですけど、おおまかな流れをメモしてみました」
開店と同時に『珈琲 大勝軒』に入ると、女将さんの渡辺千恵子さんが資料を用意してくれていた。千恵子さんは4代目の渡辺武文さんの妻で、1968年に4代目が44歳の若さで亡くなってから1986年末に大勝軒本店が閉店するまで、店を切り盛りされてきた方。古い店舗を改築してビルにし、1988年に営業を開始した『珈琲 大勝軒』は5代目の祐太郎さんが店主だが、千恵子さんも毎日店に出ている。89歳になるとのことだが、とてもそんな高齢には見えない。

渡辺千恵子さんと筆者(右)

まず知りたいのは店ができた経緯だ。なぜ中華だったのか。
「それは、初代の渡辺半之助がリン仁軒ニンケンさんと出会ったからですね」
さっそくキーマン登場だ。初代自身は料理人ではなかったのだが、林さんという広東省出身の中国人と知り合い、支那料理店をやろうと思い立つのである。林さんは1905年(明治38年)に20歳で来日し、屋台で商売をしていたらしい。この年は日露戦争が終わった年でもあり、戦勝ムードに湧いていた日本で一旗揚げようと来日したのかもしれない。初代の半之助は油問屋をやっていたらしく、それなりの財力と先見の明を持っていた人物だったのだろう。林さんを料理長として雇い、支那料理店を開くと決めた。

昭和9年(1934年)、林さん49歳のとき

場所は当時の東京を代表する繁華街のひとつ、人形町。モダンな店構えは和風でも中国風でもない無国籍スタイルだ。超高級店ではなかったようだが、町中華のイメージはどこにもない。支那料理は外国料理で、まだまだ馴染みが薄かった。

昭和3年(1928年)に撮影された大勝軒本店。
抱かれている男の子が女将さんの夫となった渡辺武文さん

謎なのは、明治天皇の後を追って大正元年に自決した乃木大将が、いつ屋号を書いたかである。以前から付き合いがあった初代が、店を出すと決めたときに、乃木大将に頼んだのだろうか。屋号となった『大勝軒』は、日露戦争に大勝したのを記念し、縁起がいいという理由で命名されたのである。となると、明治天皇が存命のときとしか考えられない。

じつはこの時期、大勝軒はピンチだったのである。林さんをスカウトし、支那料理店の開業に向けて動いていた初代半之助が、乃木大将より先の1909年(明治43年)に死去したのだ。しかし、渡辺家の養子となっていた松蔵が名を改めて2代目半之助となり、初代の意志を継いで大勝軒のオープンにこぎつけるのである。この人が商売に興味がなかったら店は開けなかったのだ。しかも、商売人として優秀だった。林さんと二人三脚で店を大きくしていった2代目の功績は、町中華界にとって大きかったと思う。

「林さんは深川の寮に住み、うちで働いていた女性と結婚しました。働いていたのは、昔から千葉県出身者が多かったですね。2代目半之介が千葉県出身だったからでしょうね」
もう一枚見せてもらったのは浅草支店の写真。本店よりさらにモダンな作りで、高級店の面持ちだ。開店は大正後期か昭和の初期。従業員も多く、活気あふれる雰囲気が想像できる。

昭和8年(1933年)4月1日に開店した大勝軒浅草支店

のれん分けの20年ルール

「でも、料理を覚えるのは大変だったと思いますよ。林さんはレシピを残さなかったし、昔の料理人は教えてもくれない。技を盗むしかない職人の世界です。だから、うちは最後までレシピというものが存在しませんでした」

なるほど。僕たちは町中華のおやじが調味料の量も計らずパッパッと鍋に投入するのを見て適当にやっているように感じたりするけど、あれはむしろ経験を積み重ねてカラダで覚えた感覚を大事にするという、基本に忠実なやり方だったのだ。手取り足取り教えなくても伸びるやつは伸びる。ただし時間はかかった。

「20年ですね。でも、いっぱしの料理人になろうとしたらそれくらいかかるわよ。で、そこまでがんばったら、のれん分けして店を持たせるのね」

のれん分けは、長年働いた従業員に屋号の使用を許可して独立させる制度で、江戸時代からあるもの。大勝軒の場合、20年修行したら店が持てるというのが暗黙の決まりになっていた。ということで、1930年代になると、日本橋界隈を中心に、じわじわと大勝軒が増えていく。

そのことで本店にはメリットがあるのか。少なくとも金銭的にはないのである。支店ではなく独立した店だから、本店に屋号の使用料を納めることはない。また、大勝軒は林さんのこだわりで、麺も焼売の皮も自家製を貫いていたので、本店が製麺所を経営して、そこから麺を購入するシステムでもない。がんばんなさいと屋号を与え、応援するだけ。親子関係に似ているかもしれない。

でも、客にとってはメリットだらけだ。独立後はメニューの構成も値段の設定も自由とは言え、そこで発揮されるのは本店で培ってきた技術。やがては似ても似つかぬ味となるケースもあるけれど、独立当初は味の継承がなされ、安心感がある。大勝軒本店はなくなっても、他の店に行けば本店仕込みの自家製麺が食べられ、僕たちはそこから、本店の味を想像することができるのだ。

ざっと1世紀も前の広東料理。欲しい野菜も手に入りにくい中、林さんはおそらく日本人向けのマイルドな味を研究しただろう。それが職人から職人へ、伝言ゲームのように伝わっていった。変わってしまったものが大半だとしても、麺の打ち方などに往時の片鱗が残っているかもしれない。以前、三越前店で食べたときは意識しなかったが、次回はじっくり味わってみよう。

珈琲 大勝軒 東京都中央区日本橋人形町2-22-4
TEL 03-3668-8600
営業時間 11:00~15:00(土日祝休み)

北尾トロ(きたお・とろ)
ノンフィクション作家。1958年福岡県生まれ。2010年にノンフィクション専門誌『季刊レポ』を創刊、15年まで編集長を務める。2014年より町中華探検隊を結成。また移住した長野県松本市で狩猟免許を取得。猟師としても活動中。著書に『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』(文春文庫)、『欠歯生活』(文藝春秋)、『恋の法廷式』(朝日文庫)、『いきどまり鉄道の旅』(河出文庫)など多数。共著に『町中華とはなんだ』(立東舎)などがある。最新刊は『猟師になりたい!②』(角川文庫)。



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