夕陽に赤い町中華

北尾トロ



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町中華はどこから来たのか
地方から東京へ「下北沢丸長」物語(1)

膨れあがる戦後の東京

第2のルーツとして考えられるのは、第二次大戦後、地方から上京した人たちの参入だ。

終戦を迎えた1945年(昭和20年)、東京都の人口は前年より378万2,717人少ない348万8284人に落ち込んだ(「人口の推移(東京都、全国)明治5年~平成23年)」(東京都人口統計課)より。以下同)。たった1年で半分以下に激減したことになる。それまで、東京の人口は右肩上がり。1872年(明治5年)に85万9345人だった数が70年後の1942年には735万7800人に膨れ上がり、過去最高を記録している。378万というのは大正8年並みの水準だ。ただ減っただけではなくて、執拗に繰り返された空襲で焼け野原になってしまったところも多かった。

しかし、ここからの復興は速く、人口の推移を見ると、終戦翌年の1946年(昭和21年)は19.92%増の約418万人、1947年(昭和22年)は19.55%増えて500万人を突破し、戦後8年経った1953年(昭和28年)にはとうとう746万8907人となり、過去最高を記録。400万人近くも人口を増やした。

この中には、もともと東京で暮らしていた人(疎開先や出征先から戻ってきた人)や戦後生まれた子どもたち以外に、仕事や住む場所を求めてやってきた上京組がたくさんいたと思われる。上京組は東京という新天地で生き抜くため、さまざまな商売を始めたことだろう。その中にラーメンに目をつけた人たちがいたのだ。

丸長の「長」は長野の「長」

僕がよく行く町中華に、下北沢の丸長(まるちょう)がある。正式名称は丸長中華ソバ店だが、丸長はあちこちにあるので、ここでは下北沢丸長と呼ぶことにしよう。下北沢といっても駅からは徒歩で10分以上かかる茶沢通り沿いの店なので、客の多くは近所の人だ。町中華探検隊のひとりが昔から通う店で、見た目はごく普通。カウンター席とテーブル席があり、奥には小上がりがある。満席で40名ほど入れるから、町中華としてはまずまずの広さだ。ここが何を食べてもハズレがない。僕は町中華に関して、味の良さを二の次に考えるほうなのだが、ここのレバニラ炒めには唸った。ラーメンはスープが文句なしだし、中華以外のメニューも抜かりがない。

下北沢丸長の夏季限定・冷しチャシュ麺。
魚からとったスープも絶品


掃除の行き届いた店内。レンゲにも丸長の文字が

まぁそれはいい。とにかく気に入ってしまい、雑誌やテレビの撮影があると協力してもらったり、探検隊の新年会をやらせてもらううちに、店主の深井正昭さんとも親しくなり、昔の話を聞かせてもらえるようになった。断片的な話を聞けば聞くほど、1953年(昭和28年)に創業した下北沢丸長の歴史は、地方からやってきて東京に根付いた町中華の代表例だと思えてならない。そこで今回、古いアルバムを見たりしながら、深井さんに記憶をたどってもらうことにしたのだ。

その前に、深井さんが大事に持っている雑誌のコピー(『丸長系ラーメン店のルーツを探る』エグゼクティブ1995年4月号~5月号)を参考に、丸長について説明しておこう。

この短い店名に、丸長のルーツが隠されているのだ。いや、むしろ丸出しなのだけれど、あっさりした店名だから、僕などは由来について考えたこともなかった。じつは、この「長」は長野県を意味するのである。

丸長の創始者は長野県出身の青木勝治氏。戦後間もない1947年(昭和22年)、ふたりの弟とともに杉並区荻窪に店を構えた。自由に小麦粉が手に入る時代ではないので、最初はしるこやぜんざいを販売した。意外なことに、丸長は甘味喫茶のような形態で始められたのだ。

その後、小麦粉が配給されるようになると、今度はうどんや蕎麦、中華麺の委託加工に変化。そしていよいよ1948年(昭和23年)、親戚をもう一人加えた4人態勢でラーメンを中心とする店を立ち上げることになり、ここで丸長の屋号が誕生した。東京で勝負をかけるにあたり、自分たちの出身地である長野の一文字を○の中に収めたわけだ。簡単だけど秀逸なネーミングだと思う。

風にはためく○の中の「長」の文字

とはいえ、いまどきの立派な店舗を想像してはならない。間口9尺(約2.7メートル)、奥行き3尺(約90センチ)だったというから1坪未満の小さな構えである。しかも、当時は食管法(食糧管理法:1942年に施行された食糧の需給・価格の管理、流通の規制を目的とした法律)の統制下で、米飯や小麦粉の販売は禁じられていたから、取り締まりを逃れるために中国人の名前を借り、代用麺というあいまいな商品を食べさせる店として営業していたという。

細胞分裂が生んだ丸長ネットワーク

これが大繁盛し、今日の礎となるのだが、注目したいのはその発展の仕方だ。いまの感覚なら、兄弟を中心に作った店が繁盛すれば第二段階は店を大きくするか、さらに良い立地に進出するか、支店を作ってチェーン化するかが主流だと思うのだが、丸長が行ったのは共同経営者4人が分かれて、それぞれが別の場所に店を持つことだった。しかも、勝治氏ら2名は丸長のままだったが、残るふたりは「栄龍軒」と「丸信」と店名まで変えてしまうのだ。ケンカ別れではなく、それぞれが我が道を行くための細胞分裂である。

そして各店からは、そこで修行した人たちが独立し、ゆるいつながりを保ちながらダシのとり方や商売の考え方を継承していった。

こうした独立歓迎の考え方が、時を経るにつれて、丸長グループというネットワークを生んでいく。1959年(昭和34年)にはグループ店で「丸長のれん会グループ」が結成され、1995年(平成7年)になると、グループ店は52店にまで増殖した。フランチャイズや支店づくりで伸ばしたのではなく、料理人の修行と独立を支援する伝統がもたらした数なのがすごい。現在は高齢化その他の理由で母体となる丸長は数を減らしたが、つけめんブームの火付け役である「東池袋大勝軒」も丸長グループの一員。つけめんが生まれたのは、丸長で修行をして独立した坂口正安氏の「中野大勝軒」だったという。そこで働いていたのが「東池袋大勝軒」の創業者、山岸一雄氏だ。二人とも、もちろん長野の出身。「丸長のれん会グループ」が、戦後の東京で花開いた町中華の一大勢力であることは間違いないだろう。

丸長のれん会グループの丸長、栄楽、栄龍軒、丸龍、
空龍、丸信、大勝軒の地図

のれん会の各店に金銭的な利害関係や営業上の縛りを作らなかったことも特徴的だ。前項で取り上げた「人形町 大勝軒」でもそうだったように、独立したら材料の仕入れも味付けもメニュー構成も各店の自由。これまで聞いたかぎり、のれん分けで独立した町中華のほぼ全てが同じである。戦前からの伝統は戦後もそのまま持ち越されたのだ。日本にフランチャイズという考え方がアメリカから輸入されたのは1960年代。少なくともそれまでは、独立に際して名前の使用許可をもらうことはあっても、それ以上の要求をするような慣習はなかったと考えられる。のれん分けとはすなわち仲間の一員になることだ。仲間として認める以上は、長年の努力に対して屋号を使うことを許し、それ以上は口を出さない。子どもの自立を見守る親みたいなものだろうか。

独立後、どのように経営していくかは店主次第。この自由な気風があればこそ、町中華界が活性化し、面白くなっていったのだと思う。蕎麦屋ののれん分けも同じようなものかもしれないが、蕎麦屋には江戸時代から練り上げられた形があり、客の求めるものもおおよそ決まっているので大きくはみ出す店は多くない。しかし、町中華は戦後に生まれた新しい中華店で、とくに初期は戦後の復興期だったため、安くて元気が出て腹一杯になれるものが求められ、“こだわりのラーメン”など開発している余裕はなかっただろう。

こだわればおのずと味にうるさくなり、得意料理で勝負したくなる。メニューを絞って専門店化する方向で、町中華店の中には後年、ラーメン専門店などに方向転換していった店もあるだろう。でもそれは高度成長期半ば以降の話である。小麦さえ満足に手に入らなかった時代にそんなことは困難だったし、客のニーズにも合わなかった。むしろメニューは増える一方。町中華はやがて中華料理からも飛び出して、丼ものや洋食メニューまで貪欲に取り込むようになっていく。

下北沢丸長の定食メニュー
このほかに日替わりセットメニューや、ワンタン麺、天津丼なども

丸長中華ソバ店 東京都世田谷区代沢5-6-1
TEL 03-3421-3100
営業時間 11:00~15:00 17:00~20:00(定休:水曜)

北尾トロ(きたお・とろ)
ノンフィクション作家。1958年福岡県生まれ。2010年にノンフィクション専門誌『季刊レポ』を創刊、15年まで編集長を務める。2014年より町中華探検隊を結成。また移住した長野県松本市で狩猟免許を取得。猟師としても活動中。著書に『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』(文春文庫)、『欠歯生活』(文藝春秋)、『恋の法廷式』(朝日文庫)、『いきどまり鉄道の旅』(河出文庫)など多数。共著に『町中華とはなんだ』(立東舎)などがある。最新刊は『猟師になりたい!②』(角川文庫)。



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