夕陽に赤い町中華

北尾トロ



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町中華はどこから来たのか
地方から東京へ「下北沢丸長」物語(2)

オヤジはレントゲン技師だったんだよ

前回は長い前置きとなった。下北沢丸長(まるちょう)の話を理解してもらうために、丸長グループの歴史をおさらいしておきたかったのだ。2代目店主深井正昭さんにひきつづき聞く。

「丸長は有名でも、長野からきてることはそれほど知られていないからねえ。ところが、ウチの親父は長野出身者じゃなくて中央区八重洲の生まれなんだよ。しかも、仕事はレントゲン技師だったの」

初代の深井正信さんは長野とも飲食店とも関係のない東京の会社員だった。1913年(大正2年)生まれだから、第二次大戦中は30歳前後の中堅社員だ。それがなぜ丸長と結びついたのか。戦争による疎開だったそうだ。
「東京にいたら危ないということで、会社ごと長野県の湯田中に移転し、そこで終戦を迎えた。俺は戦後の1948年(昭和23年)に湯田中で生まれたの。でも戦後すぐなんてレントゲン機器の需要がないから、近いうちに会社がつぶれると考えて東京に戻ることにしたんだよね。で、これからどうするかとなった親父が働いた先が荻窪の丸長本店だったわけ」

おそらく長野で知り合った青木勝治さんを頼っていったと思われるが、詳しい経緯は深井さんにもわからない。人生設計に基づいて仕事先を決めたというよりは、生きるため、家族を養うために働き口を必死で探したのではないかという。食べるために無我夢中で働いていたけれど、短期間で腕を上げたのは職人気質な性格が料理人に向いていたためかもしれなかった。

独立は1953年(昭和28年)の夏。いまの店舗からほど近いところに丸長の看板が踊った。比較的早く独立できたのは、奥さんの実家や親戚の援助を受けることができたため。池袋の小学校に通っていた深井さんは1年生の2学期から世田谷区代沢小学校に転校した。
「親父はよく”俺は脱サラ第1号だ”と言っていたから、初期の独立組ですね。その場所で2年やって、いい物件が出たというので移転したのがいまの場所」

初代と若い店員たち。ショーケース内に「大皿ひやしそば 60」の文字が見える

小学校の真ん前で、学校中の子どもが深井さんを店の子だと知っている。おかげで子供の頃からあだ名は「丸長さん」。いまでも長年の常連客は略して「長さん」だ。その頃は、家に帰ると手伝わされるのが嫌でたまらず、商売人の子はつらいナと思っていたという。

店の雰囲気はどんなふうだったのだろう。
「とにかく忙しかった記憶があるね。お客さんが多いだけじゃなくて職人が住み込みで3~4人いたんです。よく遊んでもらったなあ」

僕は1958年(昭和33年)生まれだから、ちょうどその頃の話だ。どういう年だったかというと、こんな感じである。

【出来事】
皇太子妃決定、東京タワー完成、長嶋茂雄デビュー、売春防止法施行、岩戸景気
【ヒット商品】
スバル360、スーパーカブ、フラフープ、野球盤
【流行語】
イカす、シビれる、団地族、ながら族

古い。自分が生まれたのはこんなに昔だったかとたじろいでしまうが、ヒット商品や流行語からも景気が上向いているのが感じ取れる。丸長のある下北沢の茶沢通り界隈も人口が増え、それにつれて飲食店もつぎつぎにオープンしていった。

一張羅のスーツで箱根に慰安旅行

その頃、店で働いていたのはどんな人たちだったのか。初代のように、食うためにガムシャラに働いた世代は独立を果たしたり、店長クラスになっている。といって、戦後生まれが社会にでるのはまだ早いだろう。イメージがつかめずにいると、深井さんがあっさり言った。

「集団就職の子たちですよ」

ああ、そうか。戦後から1960年代半ばにかけて中学や高校を卒業した子どもたちが”金の卵”と呼ばれ、続々と東京にやってきたのだ。

「ウチに来てたのは東北からが多かった。親父が上野駅まで迎えに行って、付添の教師からバトンタッチする形でつれてくるの。中卒の子は15歳くらいでしょう。ちょうどいい兄貴分って感じだった。東京に出てきて楽しそうに見えたな。つらいこともあったんだろうけど、とにかく飯が食えて住むところもあるからね」

1960年当時の下北沢丸長を想像してみた。厨房を仕切るのは47歳働き盛りの初代で、フロアを仕切るのは奥さん、皿を洗ったり出前に行くのは10代の金の卵たちだ。客も学生や現場仕事の男衆が主流だから20代、30代が大半を占めている----。

そう、いまからは考えられないが、僕が生まれた頃の町中華は若者が働き、若者が食べに来る、活気あふれる中華の食堂だったのだ。1960年、東京の人口は約968万人となり、1千万都市を目前にしていた。

下北沢丸長では、どんなメニューがいくらで食べられたのか。アルバムの写真に1965年(昭和40年)頃のメニューが写っていた。

ライス(50円)、五目ラーメン(150円)、餃子(60円)、カニ玉(250円)、肉団子(250円)、オムライス(150円)、カレーライス(100円)

ラーメンや炒飯が写っていないが、100円前後だろう。あと、かき氷もやっていたらしい。おっと思ったのは、オムライスがあることだ。初代は中華しかやったことがないはずだが……。

「その頃の大衆的な中華店はなんでもやったの。たしか開店当初から丼ものもやっていたと思いますよ。いまもウチなんかはいろいろやるけど、昔からメニューは多かったね。どうしてかわかる?」

どんな客にも対応できるように、だろうか。

「そうです。週末には家族連れも来るでしょ。あそこは中華しかないからって思われたらお客さん他所へ行っちゃう。中華屋なんだけどさ、丼ものはないのって言われたら、じゃあやってみるかと(笑)。だから、こういうのも作れるよっていうんじゃなくて、お客さんが食べたがるものを提供するのが基本なんだね」

どこかへ旅行へ行ったときのものだろう。写真の中に、全員がキメキメのスーツ姿で得意満面の表情を浮かべている一枚があった。町中華にスーツ?なぜみんな持っているのだろう。

「いまじゃピンとこないかもしれないけど、スーツ姿は男の夢だったんだよ。社会人になってビシっとスーツで決めたいと、中華屋で皿洗ってる子でも思ってた。これは箱根だね。せいぜい20歳かそこらでしょう、こういう機会しか一張羅を着るチャンスがなかったんですよ」

野球のユニフォームを着た写真もある。写っているのは7人。下北沢丸長だけでこれだけいたのだ。何のためにユニフォームまで作ったかといえば、のれん会の店が集まって野球大会を行っていたからだ。
「ウチは2人借りてくればチームができるじゃない。どこもそんな感じだったよね」

K.Maruchoと書かれたユニフォーム。バットは木製

まさに町中華の青春時代である。店にとって若い職人たちは家族同然。東京の親、という気持ちで面倒を見ていたという。途中でやめてしまう子もいたが、たいていは朴訥な好青年で、仕事も長く続いた。

が、全盛期を迎えるにはまだ早い。丸長グループは、1970年代~1980年代になるとますます数を増やすのだ。理由は2つ。代替わりと、金の卵たちの独立である。

深井さんが2代目となって店を継ぐ覚悟を決めたのは高校卒業が迫った時期だった。親が期待しているのはわかっていて、いずれ自分がやることになるだろうとは思っていたが、なかなか踏ん切りがつかず迷っていたところに、いいアイデアがひらめいた。
「子供の時から手伝っていて、商売の大変さは知ってたから、少しでいいから羽根を伸ばす時間が欲しかったんだよね。それで、調理師免許を取らせてくれと親父に頼んだ。昼間の出前などを手伝ってから、三宿の東京食料学校ってところの夜学に1年間通いました」

正式に入店したのは1967年(昭和42年)。10年近く働きながら修行をし、開店後31年目の1976年(昭和51年)、結婚を機に2代目主人となった。町中華は儲かっていたし、子どもが後を継ぐのは当然だと考えられていた時代なのだ。

1976年4月、新装開店当日の店内にて
後列左から2人目が深井正昭さん、隣が奥さん

一方、兄貴分として慕っていた従業員たちは勤続20年近い。年齢的にも30代半ばから後半に達し、独立の時期を迎えていた。気心も知れているのだから一緒にやっていく選択肢はなかったのだろうか。
「それはないよ。職人さんは親父に雇われていたのであって、弟みたいな存在だった俺に使われるのは嫌だったと思います。代替わりのとき2人独立しました」

深井さんは代替わりにあたり一念発起。2千万円借金して、店舗を新しく建て直した。さらに、その4~5年後には隣接する建物が売りに出たので買って改装し、現在の広さになった。負けず嫌いな性格だから代替わりして味が落ちたと言われたくないと、早朝からスープのダシを取ることが習慣になったのもその頃から。居心地のいい店舗と、何度も通いたくなる味の追求。地元の客に愛される店であり続けることを自分のテーマに据えたのだ。すでに飲食店は街にあふれ、ファストフードや大手企業のチェーン店、ファミレスも登場。これまでのようにはいかない時代がくることを無意識に察知していたのかもしれない。

雑食性と頑固さと地域密着

丸長グループの歴史からわかるのは、ラーメンという戦前からの人気メニューを軸としながらお客さんが求める中華以外の食べ物まで積極的に取り入れてきた町中華の雑食性と、なんでもアリだと思わせながら中華という軸だけはブレずにきた頑固さだ。そうやって店を繁盛させながら、下北沢丸長から2店舗がのれん分けしたようにあちこちで仲間を増やし、共存共栄の関係を築いてきた。また、その輪の中から、より時代に適応できる新しいタイプの中華店も生まれてきた。

「さすがに平成になってからは丸長を名乗る店が減ってきたし、今後増えることもないだろうね。いっときは、この界隈だけで中華屋さんが8軒あったけど、いまはウチだけになっちゃった。それこそ時の流れだから仕方がないと思うよ。かつてのように儲かる商売じゃないからね。俺だって、息子がいるけど親父に言われたように後を継げとは言えないもん。自分の代で終わってもいいと考えてます」

そう言いながらも、深井さんは69歳の今も朝6時からダシをとり、床を磨き上げ、ショーケースにホコリの一つもない状態で来店を待つ。何十年もそうやってきたものを、歳を取ったからとか疲れやすくなったからという理由でやめることはプライドが許さないのだ。
「この前、子供の頃からしょっちゅう出前を取っていたって女性が、初めて店に食べに来たの。やっとアツアツが食べられましたと喜んでくれて嬉しかった」

今はもう作ることができないという
背もたれに「長」の字が施された特製のイス

そうか、店で出来たてを食べるのは初めてのことだったのだ。それなのに、食べ慣れた味というところに、町中華と地域の親しい関係が現れている。
「ママさんバレーの人たちが練習の後で来てくれたりね。あの人たちはよく食べ、よく喋るよ」
町中華が食堂兼ダベリ場になっているのだ。

「ラーメンを掬ってみる?やったことないでしょう」
厨房に入ると深井さんが麺を投入。渡された平たいざるで麺を掬い上げて軽く湯切りをするのだが、掬ったそばから麺がこぼれてしまう。あきらめてざるを返すと、深井さんが手際よく麺を乗せてまとめてしまった。速い。忙しいときは同時に5つくらい一気に茹でるため、それでも麺が伸びないよう、1杯分を2~3秒でまとめる技が身についているのだ。

持ちにくい平たいざるで手際良くラーメンを掬う深井さん

初代は店を譲った後も現役を続行し、90歳になっても釜場に入っていたそうだ。深井さんも、息子が継ごうと継ぐまいと、カラダがつづく限り鍋を振ることになるのだろう。

丸長中華ソバ店 東京都世田谷区代沢5-6-1
TEL 03-3421-3100
営業時間 11:00~15:00 17:00~20:00(定休:水曜)

北尾トロ(きたお・とろ)
ノンフィクション作家。1958年福岡県生まれ。2010年にノンフィクション専門誌『季刊レポ』を創刊、15年まで編集長を務める。2014年より町中華探検隊を結成。また移住した長野県松本市で狩猟免許を取得。猟師としても活動中。著書に『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』(文春文庫)、『欠歯生活』(文藝春秋)、『恋の法廷式』(朝日文庫)、『いきどまり鉄道の旅』(河出文庫)など多数。共著に『町中華とはなんだ』(立東舎)などがある。最新刊は『猟師になりたい!②』(角川文庫)。



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