夕陽に赤い町中華

北尾トロ



6

町中華はどこから来たのか
引揚者の参入で大陸の味が合流した(1)

焼き餃子は戦後を代表する町中華メニュー

スンガリー飯店を「発見」したのは3年ほど前、雑誌の取材で東府中(東京都府中市)へ行ったときだった。町中華探検を初めてから、どこかに行くと町中華店を探す癖がついているのだ。

特徴的な文字で書かれた看板。建物の側面には<スンガリーでお食事を 御宴会・御商談・御食事はお二階で>のコピーが踊る。

スンガリー飯店の外観

入り口を見れば、レトロ感あふれるテントがあり、ショウケースはランプの灯りで照らされている。中華っぽくない店名にも興味をそそられた。

ショウケース。パンダがあちこちに

仕事を終えるとさっそく訪ねてみた。店内は一般的な町中華より広く、テーブル席のみ。二階は大人数の予約が入ったときだけ使われているようだ。厨房は奥にあり、客席から丸見えの"劇場型中華"ではない。店構えの立派さからも、もともとは本格的な料理が主体だったと思われる。

定食から一品料理までの幅広いメニューから、ランチセットを注文。味はいたって普通だった。会計のとき、店名の由来を尋ねると、中国北部を流れる松花江(しょうかこう)という川の別称で、創業者が満洲からの引揚者だったことから名付けられたという。

そのときは、町中華にはそういう成り立ちの店もあるのかと思っただけだったが、日が経つにつれて、戦後、外地から引き揚げてきた人たちが町中華に与えた影響が気になってきた。戦前から営業していた老舗店、地方からの上京組が立ち上げた新興勢力に加え、引揚者たちの奮闘も、町中華のルーツとして見逃すことができないのではないだろうか。

もちろん、数でいったら日本で暮らしながら戦後の混乱期を乗り越えて商売を始めた人が圧倒的に多く、それこそが原点と考えることもできる。ただ、引揚者によって日本に"輸入"された料理には、町中華のマストアイテムとなったものがあるのだ。

家庭料理としても普及し、ラーメンや炒飯と並ぶ町中華の定番中の定番メニュー、焼き餃子である。

スンガリー飯店の焼き餃子。5個380円

中国では古くから餃子が食べられているが、もっともポピュラーなのは茹でたものを湯切りして食す水餃子で、御飯のおかずというより主食として親しまれてきた。他には点心のひとつである蒸し餃子や、揚げ餃子が一般的。焼いて食べることは主流とはいえず、薄い皮で具材を包んで焼き上げるスタイルが人気メニューとして定着しているのは日本だけと言われる。では、いつ、どんな人が伝えたのか。自他ともに認める餃子の街、宇都宮市の公式サイトには以下のような記述がある。

<宇都宮が餃子のまちとなったのは、市内に駐屯していた第14師団が中国に出兵したことで餃子を知り、帰郷後広まったことがきっかけです。また、宇都宮は夏暑く冬寒い内陸型気候のため、スタミナをつけるために餃子人気が高まったとも言われています>

戦時中に広まったはずはなく、戦地から戻った軍人や、旧満洲で暮らしていた引揚者が店を始め、メニューに取り入れたことで、知られるようになっていったと考えていいだろう。では、こうした現象は宇都宮市だけで起きたのか。そんなことはない。

台湾、朝鮮、満洲、関東州、サハリン、千島列島、南洋諸島などの地域に移住し、敗戦後、日本に帰還した引揚者は約660万人もいたという。彼らは地元に戻ったり、都市に住むなどして、日本各地で新しい生活を始めた。そこには当然、引き揚げ前に暮らした土地の食文化が持ち込まれたはずだ。

引揚者の中で突出して多かったのが中国と旧満洲国から戻ってきた人々。ともに100万人以上と言われるが、中国から引き揚げた人の大半が軍人だったのに対し、満洲は民間人が多数を占めた。日本を引き払って満洲に移住した人たちが出直しを図る中、飲食店に目をつけ、闇市で商売をしたり、屋台を引いたり、店を出そうとする人が一定数いたのだと思う。

『引揚者の戦後 (叢書 戦争が生み出す社会)』(島村恭則)という本には、引揚者が集まって組織を作り、力を合わせて商売をした様子が紹介されている。一例を引くと、上野にある「アメヤ横丁」(アメ横)がそう呼ばれるようになったのは、上野駅でアイスキャンディーを売る商売をしていた「下谷引揚者更生会」が、冬に売れるものをと考えてアメに目をつけたのがきっかけだったという。引揚者に多くいた南満洲鉄道(満鉄)出身者が、国鉄に再就職した元の仲間の縁をたどって、高架下スペースを使うことができたのだ。砂糖不足の時代、アメ屋は大繁盛。引揚者以外もそこらじゅうでアメを売ったことから、アメ横という通称がついたのである。

必死の力で道を切り開いていった彼らの中から、自分で商売をやろうとする人が現れる。限られた元手だから、選択肢は広くなかっただろう。引揚者ではなかったが、戦後に郷里を離れて商売を始めた僕の祖父は、「みんな腹ペコだ。甘いものにも飢えている、飯屋か甘いもの屋なら儲かると考えて菓子屋になった」、と言っていた。だから、引揚者の一部が何か始めようとするとき、食べ物屋にしよう、満洲での生活経験を活かした中華で行こうと思うのは、ある意味自然なことだと思う。

何も自分が料理人である必要はない。戦後の混乱期、戦前から住んでいた人に加え、日本には海外から新天地を求めてやってきた人もいた。料理人を探す苦労は少なかっただろう。いまの町中華は日本人が鍋を振る店がほとんどだが、かつては中国や台湾出身の料理人が厨房を任されている店がそこらじゅうにあり、彼らから学びながら料理を覚えていった経営者が多かった。そうした試行錯誤の結果が二代目などに受け継がれつつ日本人好みに改良されていったわけで、初期の町中華で提供されていた料理の味は、いまとはかなり違うはずだと僕は思っている。

引揚者が日本に持ち込んだもので人気を博した料理には、北海道の芦別市で郷土料理として親しまれている、豚骨・鶏ガラをベースに野菜や肉、卵などを入れてとろみをつけた「ガタタン」や、盛岡名物となっている「じゃじゃ麺」、ラーメンを屋台で売る夜鳴きそばなどがある。中華以外では、辛子明太子やジンギスカンも引揚者によって生み出された食べ物とされる。

だが、なんといっても出世頭は焼き餃子だろう。

しゅうまいの座を焼き餃子が奪取した

安くておいしくてスタミナのつく戦後の新メニューとして登場した焼き餃子は、戦前に定番だったしゅうまいを押しのけるように人気を高めて行く。人形町大勝軒に焼き餃子がないのは、しゅうまいに自信があるからというより、店を作ったとき、日本にそんなメニューは存在しなかったからなのである。

老舗の大勝軒はともかく、普通の店は悩んだに違いない。福岡県久留米市で餃子専門店「湖月」の創業が1947年、神戸市の「ぎょうざ苑」が1951年。このあたりを焼き餃子メジャー化のあけぼのと考えても、まだまだ新参メニューである。焼き餃子は導入するけれども、しゅうまいだって舌に馴染んだ戦前からの人気メニューだから切り捨てるわけにはいかない。並立だ。作るのが大変だけど、両方をメニューに載せて様子を見るという判断。

この時代は長く、僕が学生だった1970年代後半には、焼き餃子に押されながら、しゅうまいもやっている店が大半だったと記憶する。が、ビールのつまみに良し、定食に良し、セットメニューでは脇役もこなせる焼き餃子の勢いは衰えを知らず、いつの間にかしゅうまいを扱う店は減ってしまった。単品で焼き餃子を脅かすメニューも現れていない。

決着はついたかに見える。だが、我々はしゅうまいというライバルの存在を忘れてはならない。しゅうまいの影が薄くなったのは町中華限定の話。中国料理全般を見れば、正統派中華料理として実力を発揮しまくっている。満洲発のローカルメニューである焼き餃子に町中華を任せ、しゅうまいは本来の持ち場で我々を楽しませてくれているのだ。

焼き餃子人気の高まりで、それが満洲からやってきた味であることも知れ渡った。埼玉県を本拠地に首都圏で展開する町中華チェーンに『ぎょうざの満洲』があるが、屋号に違和感を感じる人はきっと少ない。ぎょうざだから満洲なんだ、と思う。

おもしろいのは、店側もそのイメージをうまく商売に利用していることだ。『ぎょうざの満洲』創業者は、兄が満洲からの復員兵で、餃子の話をよく聞かされたそうだ。おやつとしても主食としてもおいしいなら日本でも人気が出る。そう考え、東京オリンピックがあった1964年、中華料理店を開業する際、満洲国の都市名『満洲里』と命名。1977年から『ぎょうざの満洲』に改め、現在に至っている。

満洲との関連を示す屋号としては、ハルピン(現在の黒竜江省ハルビン市)もよく使われている。正式にはハルビンなのだが、なぜか店舗名となるとハルピンなのだ。ぼくの住む松本にも同名の中華主体の食堂があるが、どうみても個人店。満洲帰りの人が始めた店だとしても、あえてハルピンを屋号にしたのは、誰かがこの名前で店を流行らせた結果、それを真似した店があちこちに増えていったのだろうと想像がふくらむ。満洲国の首都を店名にした『新京』(現在の吉林省長春市)などもそうだが、こうした屋号を見ると、客は反射的に餃子が看板メニューなのだと思ってしまうのだ。

長野県松本市にある「ハルピン食堂」

中華料理スンガリー飯店 東京都府中市若松町1-1-1
TEL 042-361-2578
営業時間 11:30~14:30 17:30~21:00(府中の森イベント開催日は21:30まで)
水曜定休

北尾トロ(きたお・とろ)
ノンフィクション作家。1958年福岡県生まれ。2010年にノンフィクション専門誌『季刊レポ』を創刊、15年まで編集長を務める。2014年より町中華探検隊を結成。また移住した長野県松本市で狩猟免許を取得。猟師としても活動中。著書に『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』(文春文庫)、『欠歯生活』(文藝春秋)、『恋の法廷式』(朝日文庫)、『いきどまり鉄道の旅』(河出文庫)など多数。共著に『町中華とはなんだ』(立東舎)などがある。最新刊は『猟師になりたい!②』(角川文庫)。



TOP