夕陽に赤い町中華

北尾トロ



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町中華はどこから来たのか
引揚者の参入で大陸の味が合流した(2)

花屋をやめて開業したスンガリー飯店

3年ぶりに再訪したスンガリー飯店は、前回と変わらぬ佇まいで東府中の駅前にあった。ホッとする。町中華は店主の高齢化などで店を閉めるところが増え、ネットに情報があっても、行ってみたら閉店のお知らせが貼られていることも珍しくないのだ。

とくに餃子を推しているようでもないのでピーマンとトリ肉炒め定食(写真)を注文し、改めて店内を眺めた。入口やレジとテーブル席を区切るアーチ型の壁があり、天井と側面の壁からはランプの柔らかい光が降り注ぐ。基調となる壁の色はワインレッド。宴会席まであるくらいだから、できた当初は、中・高級路線の店だったのではないだろうか。それとも店主のこだわりなのか……、気になるなら店の人に訊け!

ピーマンとトリ肉炒め定食。定食は週替わりで600円~900円


店内の様子。奥の壁に龍の絵が

食べ終わり、皿を下げに来た女性に申し出て、話をすることができた。ここは彼女の祖父と祖母が始めた店で、現在は自分がフロアを手伝い、三代目となる弟が料理を作っているという。

開業したのは1960年というから半世紀以上前。当時は平屋の中華料理店だった。世の中は1955~1957年にかけて31ヶ月間続いた神武景気を上回り、42ヶ月間続いた岩戸景気に湧いていた。皇太子夫妻に長男が誕生し、ダッコちゃんが大流行した頃である。

その建物を取り壊し、現在の4階建てビル(1,2階が店舗、3,4階が住居)に変身したのは1972年。札幌オリンピック、連合赤軍によるあさま山荘事件の年で、総理大臣は田中角栄だった。景気は順調で、石油ショックで物価が急上昇するのは翌73年のことだ。

祖父母たちは満洲帰りで、引き上げたのは1942年。6月のミッドウェイ海戦で日本軍が完敗した年である。満洲で暮らしていたのはハルビン。二代目はそこで生まれたという。

「店名の由来ですか? 詳しくはわかりませんが、スンガリー川に何か思い出があったのではないでしょうか。戦後間もなく日本に戻って東府中で暮らすようになり、祖父は立川の米軍基地に勤務し、祖母はすぐ近くで花屋を開いていたんです」

飲食とは縁もゆかりもなかった夫婦が、なぜ中華店をやることになったのだろう。いつかは一緒に料理店を経営するのが祖父母夫婦の夢だったのか。

「残念ながら、そういうドラマチックな展開ではないんですよね。この場所で中華料理店をやろうとした中国の方がいたらしいのですが、契約寸前になってどこかへ消えてしまったらしいんです」

知り合いだった祖父母夫妻が困った大家か不動産業者に泣きつかれて引き受けたらしい。料理ができたわけではないので、新たに中国人のシェフを雇い入れ、自分たちはフロアや会計を担当する経営者になったのだ。

「そうなんです。成り行きで始めちゃったのが凄いですよね」

飲食店向きの物件だとしても、安定した暮らしを捨て、準備期間ゼロで未経験の飲食店経営に舵を切るなんて、いまの感覚では考えにくい腰の軽さだ。明日を信じることのできた時代は勢いがあるなあ。

創業当時の平屋の店舗。
右の日傘の女性は、おそらく府中基地(現自衛隊)の米軍関係者

しかも、その素人が始めた店が当たってしまうのである。東府中には航空自衛隊府中基地があり、そこで働く人たちが常連客になってくれ、会合や宴会でも使ってくれた。界隈に飲食店の絶対数が少ないこともあり、付近の会社で働く人もたびたびきてくれる。基地での仕事や花屋をやめて挑んだ賭けは吉と出た。

「内装についてこだわりがあったかどうかはわかりませんけど、厨房の前にある龍の絵も当時のままだと聞いています。中華っぽさを出したかったんでしょうね(笑)」

流れに乗って2代目が後を継ぎ、2000年からは3代目が調理を担当。初めて店主が鍋を振る店になったスンガリー飯店。

「いつまで続けられるかわかりませんけど、弟がやる気になっているのでがんばりたいです」

姉さんは弱気だが、後継者不足の町中華店で3代目にバトンタッチできたのはレアケース。家族経営で乗り切って欲しい。食事処が乏しい東府中で町中華の灯を守るのは、ここしかないのだ。

ハイブリッド都市ハルビンは町中華的混沌に満ちていた!?

スンガリー川流域の主要都市には吉林市、ハルビン市、ジャムス市がある。初代が住んだハルビンはどんなところだったのか。

実は、『スンガリー』という同名の有名ロシア料理店が存在する。新宿などに店があるが、1951年の創業時は新橋だった。創業者は歌手の加藤登紀子さんのご両親。彼らもハルビンに終戦直後まで暮らしていた。ハルビンにはロシア人が多かったため、ロシア語も話せたという。現代表の加藤登紀子さんもハルビン生まれである。その刷り込みがあったために、町中華らしくない名前だと感じたのかもしれない。

現在のハルビン市中心部とスンガリー川(松花江)

では、なぜハルビンにロシア人がいたのか。じつは当時のハルビンは、世界でも珍しいハイブリッド都市だったのだ。

19世紀末、世界の強国は中国への侵略を開始したが、列強のひとつロシアは満洲を狙い、その拠点となる"東方のモスクワ"にすべく新都市・ハルビンを建設した。そこに割り込んでいったのが、1932年の満洲国設立後、この地を支配した日本である。街路や広場が作られ、ロシア正教の寺院や病院などが建ち並び、中国人の商業エリアや居住区も定められるなど、着々と進んでいた新市街計画の途中で、日中露の人たちが入り乱れて生活することになったのだ。

幻に終わったが、満洲に強い影響力を持っていた関東軍はハルビンの先進性に注目し、都市建設のための会社を作ろうと画策。国際都市とすべく、パリのムーランルージュのような劇場や競馬場、カジノを作る計画まであったというから驚く。

人が交流すれば食文化も交わる。ロシアでは焼いて食べられることが多いピロシキも、ハルビンでは油で揚げて食べられるようになった。そして戦後になって日本に伝わるときには、具材に中華料理の材料である春雨が使われ、その形がピロシキとして普及したりするのだ。焼き餃子もただ持ってきたのではなく、日本に来てからニンニクを使う料理に変化した。ラーメンも然り。ただ真似をするのではなく工夫を加えて独自の味になってゆく。そして、そのように生まれ育った日式中華や日式ロシア料理の源流となったのが、ハルビンというハイブリッド都市だったのではないか。

文献やネットでハルビンについて調べている途中、ハッとする瞬間があった。ロシア人が建築した建物の、ルネッサンス様式やアールヌーボー様式のデザインが、スンガリー飯店の内装と似通って見えたのである。あの照明もアールヌーボーランプ風と言えなくもない。目の錯覚かもしれないが……。

スンガリー店内の照明。優しい光

中華料理の店を始めるとき、創業者夫婦は在りし日を思い出しながら、店名はどうしよう、内装はどんなデザインにしようと話し合ったことだろう。頭にあったのはハルビンの建物や風景。あれを自分たちなりの思いを込めて再現しよう。そう考え、ランプの灯を使うことにしたのではないだろうか。そして、ハルビンを象徴する固有名詞として、スンガリー飯店に決めたのだと僕は思う。

主な参考・引用文献
『引揚者の戦後 (叢書 戦争が生み出す社会Ⅱ)』島村恭則/編(新曜社 2013)
『哈爾浜(はるぴん)の都市計画』越澤明(ちくま学芸文庫 2004)

中華料理スンガリー飯店 東京都府中市若松町1-1-1
TEL 042-361-2578
営業時間 11:30~14:30 17:30~21:00(府中の森イベント開催日は21:30まで)
水曜定休

北尾トロ(きたお・とろ)
ノンフィクション作家。1958年福岡県生まれ。2010年にノンフィクション専門誌『季刊レポ』を創刊、15年まで編集長を務める。2014年より町中華探検隊を結成。また移住した長野県松本市で狩猟免許を取得。猟師としても活動中。著書に『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』(文春文庫)、『欠歯生活』(文藝春秋)、『恋の法廷式』(朝日文庫)、『いきどまり鉄道の旅』(河出文庫)など多数。共著に『町中華とはなんだ』(立東舎)などがある。最新刊は『猟師になりたい!②』(角川文庫)。



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