夕陽に赤い町中華

北尾トロ



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町中華はどこから来たのか
日本人の食生活を変えたアメリカの小麦戦略(1)

なぜ和食の食堂ではなく中華だったのか

これまでの連載で、戦前から営業していた中華料理店、戦後の上京組、満洲からの引揚者について書いてきたが、終戦後の混乱が少し落ち着く1950年代頃、町中華の原型のような店を始めたのは彼らだけではなかった。たとえば、戦後の闇市で商売していた人が資金をためて店を出すパターン。「ラーメン道を極めたい」「中華料理を世の中に広めたい」などと夢を語るような時代ではなく、生き延びていくために何をするかが最優先だった当時、ラーメンや中華料理は新規参入しやすくて、成功が見込める商売のひとつだったのではないだろうか。

なし崩し的に町中華店になってしまうことも珍しくなかったようで、僕の知るある店など、戦後の闇市でモツ煮込みを売ることから始めたそうだ。肉を仕入れるルートをたまたま持っていたためやってみたところ、作るそばから客が集まり、飛ぶように売れたという。

新橋の闇市の様子


そのうちに「温かくて栄養がある」とラーメンが人気になってきたので、闇で出回っていた小麦粉を仕入れて作ってみたら、これまた大人気となり、昭和20年代後半にはラーメンを主力とした食堂をオープン。客の求めるものを提供しているうちに炒飯などのメニューが増え、ぼくらがイメージする庶民的な中華屋らしくなっていった。

最初から中華屋を目指したのではなく、必死で働いているうちに町中華になってしまったのだ。

屋台のラーメンが台頭するのは、食糧難のため実施されていた小麦の統制が解除される1950年(昭和25年)以降のこと。麺やスープから器までセットにして屋台を貸す業者が登場してから普及したと言われている。売り上げの一部を払えば簡単に商売が始められたので、引き子(屋台を借りて売る人)は素人でも可能。売り上げから業者にマージンを払っても、引き子はそれなりに儲かった。開業資金いらずのシステムなので志願者が多かったのも頷ける。

チャルメラを吹いて町を流す屋台のラーメンそのものも、“夜鳴きそば”と呼ばれて定着。1958年に福岡市で生まれた僕が子どもの頃は、繁華街に出かけるとよく見かけた。東京で学生時代を過ごした1980年前後でも、主要な駅前には夜になるとひとつやふたつ、ラーメン屋台が出没していたものだ。人気の出た屋台から、やがて独立して店を持つ人もいただろう。

このように、町中華というのは戦後の貧しい時代、食糧難に苦しんだ日本人が生み出した新しいタイプの庶民的な食堂だった。では、なぜ和食の食堂ではなく中華だったのだろう。
そう、米がなかった。戦争中から不足していたところに、終戦の年と翌年の大凶作が追い打ちをかけ、配給物資は微々たるものだった。闇市に出回る米は配給価格の30倍もの高額で取引されたほどだ。でも、他のものならあるかと言えば、それもまったくなく、みんなが空腹と栄養不足にあえいでいた。

その中で、ラーメンの原料である小麦だけが豊富に入手できるはずはない。戦前まで、日本は米食中心の国だった。小麦の生産量はもともと多くはなかったのだから、在庫が市場に出回ったとしてもその量は限られていて、それだけでラーメン人気を全国に行き渡らせたと考えるのは無理がある。何か理由があるだろう。

答えは簡単。市場に出回ったのは国産ではなくアメリカの小麦だったのだ。

なるほど、そりゃそうだろう。1945年から1951年まで、日本はGHQ(連合国最高司令官総司令部)によって統治され、実質アメリカの支配下に置かれたのだから、小麦を入手するとしたらアメリカからとなるのは当然なのだ。パン食を始め、日本人の食生活が戦後急速に欧米化したのも、同じようにアメリカの影響を強く受けてのことだと、僕たちはぼんやり理解している。

でも、終戦後の日本は食料がないだけではなく金もなかった。政府が「食糧不足をなんとかしなければならない」と考えたときに、穀物をどんどん輸入できていたら国民が飢えるはずがない。四苦八苦しながらも、少しずつ食糧事情が良くなっていった背景には、そして小麦粉を使った主食が増えていった背景には、政治的な理由があったと考えるべきだ。

ということで、当時を振り返りつつ、町中華の誕生と切っても切れない“小麦の謎”について整理してみよう。

GHQの統治と「ララ物資」

米政府とGHQの最優先課題は、日本の民主化と非軍事化。まず行ったのは治安維持法や特高(特別高等警察)の廃止、政治犯の釈放など。続いて婦人の開放、労働組合結成の奨励、学校教育などの民主化、そして、財閥解体、農地改革も矢継ぎ早に進められていく。食糧援助も行ってはいたが、アメリカは当初、日本の国内生産を増加させることが食糧不足の解決策につながると考えていたようで、援助にそれほど積極的ではなかったという。

むしろ、人道支援的立場から、まずそこに目をつけたのはアメリカの慈善団体だった。通称「ララ物資」(LARAはLicensed Agencies for Relief in Asia〈アジア救援公認団体〉の略)と呼ばれるもので、1946年から1952年までの、日本が本当に苦しいときに食料や医療、医薬品などの援助物資を届けてくれたのだ。この物資を使い、都市部では1947年から、その後おなじみとなるパンと脱脂粉乳を使った学校給食が始まるなど、大きな助けとなった。

スキムミルクを湯で溶いた脱脂粉乳の味を知っているのは、1950年代生まれまでだろう。いまでこそ学校給食もバラエティ豊かになったが、小学校低学年だった1960年代半ば、福岡市の小学校に通っていた僕は脱脂粉乳で育った最後の世代だ(同世代でも、東京などの都会では脱脂粉乳未体験者が多い)。独特の匂いが子どもたちに不評だったが、残すと先生に怒られる。脱脂粉乳を苦にせず、人の分まで飲める男子はちょっとしたスターだった。
だって、家では牛乳の宅配を毎朝飲んでいたのだ。10数年間のうちに食糧事情が劇的に良くなっていたわけだが、家で給食の不満を口にするとこっぴどく叱られたのは、辛い時代を体験した親にとって“残す”行為が贅沢としか聞こえなかったからだろう。

「ララ物資」は慈善事業だから見返りは求めない。純粋に、困っている日本人を助けようとして行われたその精神は素晴らしかったし、受け取った側も心から感謝したと思う。また、その物資が、日本の将来を担う子どもたちのために優先的に使われたのも意義のあることだった。

1947年、ララ物資により、スキムミルクとパンの学校給食が出たことに
感謝する子どもたちの街頭行進(毎日新聞社提供)


「ララ物資」の使われ方は、アメリカにとっても大きなヒントとなったフシがある。日本が自力で食糧難を解決すべきという考えを持っていたGHQが態度を軟化させ、この事業をサポートするようになるのだ。

学校給食を普及させるのに「ララ物資」だけでは足りない分を、アメリカとして援助しましょう、安く提供しましょう。そんな感じで、1946年に34万トンが送られたのを皮切りにその量を増やし、1950年には157万トンの小麦が日本に入ってきた。あっという間に4倍以上。ララ物資の効果にアメリカが乗っかり、日本が待ってましたとばかりに飛びついた格好だ。

なお、すべてがアメリカ産ではないが、小麦の輸入量は1980年ごろまで増加し、1960年には266万トン、1970年462万トン、1980年556万トン、その後増減はあるものの2014年には602万トンに達している。それに対し、国内生産量は1961年の178万トンをピークに減り続け、1973年にはなんと20万トンまで減少。その後持ち直したものの、2014年の数値は85万トンに過ぎず、輸入に頼り切りとなっている(農林水産省HPより)。

アメリカから輸入されるようになった小麦は学校給食だけに使われたのではない。市場にも出回り、一部は闇ルートに流れて、闇市で人気のラーメンにも使われるようになった。GHQもそれを知りつつ目こぼししたようだ。ラーメンのことなど気にしていなかっただけという気もするが、町中華ファンとしては「よくぞ大目に見てくれた。ナイスジャッジ!」と言うしかない。

小麦を使った麺の需要が増えれば、製麺所も戦前から主力だったそばとうどんばかりでなく、中華麺の製造に力を入れるようになる。作った麺が売れれば生産量も自ずと増える。このようにして、学校給食で食べられたパンや、闇市で人気を博したラーメンが、ご飯に代わる新興勢力として頭角を現していく。

でも、話はこれで終わりではない。日本に小麦が売れること、しかも押し付けるのではなく、食糧援助の一環としてそれができたことは、アメリカにとっても意味のあることだったからだ。

北尾トロ(きたお・とろ)
ノンフィクション作家。1958年福岡県生まれ。2010年にノンフィクション専門誌『季刊レポ』を創刊、15年まで編集長を務める。2014年より町中華探検隊を結成。また移住した長野県松本市で狩猟免許を取得。猟師としても活動中。著書に『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』(文春文庫)、『欠歯生活』(文藝春秋)、『恋の法廷式』(朝日文庫)、『いきどまり鉄道の旅』(河出文庫)など多数。共著に『町中華とはなんだ』(立東舎)などがある。最新刊は『猟師になりたい!②』(角川文庫)。



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