夕陽に赤い町中華

北尾トロ



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町中華はどこから来たのか
日本人の食生活を変えたアメリカの小麦戦略(2)

アメリカの目論見にはまる

前回は、「ララ物資」を契機に、日本における小麦の需要が急激に伸びたところまで書いた。
では、それを見たアメリカは何を考え、どんな方法でさらに日本の小麦需要を伸ばしていったのか。後編のテーマは、将来にわたって自国に有利な貿易をするために、アメリカが行った小麦戦略について。じつは、アメリカには、小麦が余ってしょうがないという悩みがあったのだ。

機械化の進んだ広大な土地で生産されるアメリカの農産物は、第一次大戦、第二次大戦で連合国の兵食として大量に消費され、需要を伸ばした。大戦が終わってからも、マーシャル・プランという通称で知られる「ヨーロッパ復興計画」を実施。大規模な食糧援助を行うことで、自国農作物の行き場を確保できた。

しかし、1950年に始まった朝鮮戦争が3年後に終結する頃になると事情が変わる。兵食需要がなくなったことや、ヨーロッパ各国の復興が進んで食糧自給ができるようになってきたことで、思うように輸出ができなくなってきた。アメリカにとって、自国の農業を守るために新たな輸出先を探すことが急務となっていたのである。

一方、「ララ物資」やアメリカからの輸入で当座のピンチをなんとかしのぎ、GHQによる統治も終わった日本は高度成長期に差し掛かろうとしていたが、当時の吉田茂内閣は議席を減らして政情は不安定だった。アメリカにしてみれば、日本のこうした状況は絶好のチャンス。食糧援助の名目で日本に5000万ドル分の余剰農作物を輸出し、日本が国内で売りさばいて得られる資金のうち、4000万ドル分をアメリカの取り分として日本への軍事援助に使い、1000万ドルを日本の取り分として経済復興に使う協定をまとめてしまった。これが自衛隊の発足にもつながっていく。余った農作物を売りつけるのではなく、それを使って軍備を増強させることで、アジアの守りを固めようともくろんだのだ。

日本や食糧不足に悩む発展途上国を有望な輸出先だと考えたアメリカは、余剰農作物輸出作戦をさらに進めるため、ドルではなく輸出先の国の通貨で、しかも代金後払いで購入できるなどの好条件を備えたPL480法案を1954年に議会で成立させる。なかなか気前の良い法案に思えるが、アメリカの狙いは長期間に渡って農作物を輸出できる国を確保すること。そのため、目先の利益は捨てる代わりに、見返り資金(民間に売却した代金)の一部をアメリカ農産物の宣伝や市場開拓費として使える、という条件をつけた。

この呼びかけに応じた国は、イタリア、ユーゴスラビア(当時)、トルコ、パキスタン、日本、韓国、台湾など。他国の事情はよくわからないが、日本はこの時点でアメリカの小麦戦略に完全に乗せられたと言っていいだろう。パンを導入した学校給食という下地がすでにあったため、国民の反発も起こりにくかったと思われる。

パンの美味しさを覚えた子どもは、その後もずっとパンを食べてくれる。パンに味噌汁は合わないから、おかずも和食だけでは済まなくなる。善意で送られた「ララ物資」が、こんな形でアメリカの国策と結びつくのは皮肉なことだけれど、アメリカの目論見どおりに、日本は小麦の輸入大国になっていくのだ。

キッチンカーが町を走る

子どものつぎに狙いをつけたのは何か。いよいよラーメンか。残念ながら違う。景気が良くなってきて、町には中華屋も増えていたし、ラーメン人気も高まる一方だったが、外食分野より大きなターゲットがあるではないか。

家庭である。家の台所を担う女性たちである。洋風のおかずが流行ればパン食が増え、小麦の消費量がアップするのだ。では、どうやってそれを成し遂げる?

ここで登場するのが、リチャード・バウムというアメリカの弁護士。1948年に来日して、日本が有望な小麦輸出国であることを調査したことのある人物だった。そのバウムが貿易交渉のため来日したのは1954年。そして、このとき目にしたのが、料理講習を行うために大型バスを改造して作られた1台のキッチンカーだった。

主婦たちに大人気だったキッチンカー。
うまく調理の様子が見えるように改造されていた。
撮影:1954年 東京都台東区(毎日新聞社提供)


キッチンカーの目的は国民の栄養改善で、講習を受けるのは家庭の主婦だったが、資金難のためプロジェクトは暗礁に乗り上げていた。説明を受けたバウムが興味を示したので、厚生省の役人は、アメリカが資金援助してくれるなら、小麦の消費拡大のため、キッチンカーを使って協力すると持ちかけると、これが実現してしまうのである。テレビさえない時代に、一般家庭の献立を変えるには、料理の実演がもっとも効果的であると判断したのだろう。

日米が共同で取り組んだ、栄養改善運動の大キャンペーンが始まったのは1956年。キッチンカーの製作から小麦粉製品PR映画制作費、料理講習会の補助、専任職員の雇用費まで、活動資金はアメリカが用意した。条件は、食材に小麦とマメを使うことだったそうだ。

たかが料理講習会というなかれ。キッチンカーの数は12台。これが5年間のうちに全国各地の2万会場を走り回ったというから、1台の年間稼働数は333回にもなる。まさにフル稼働である。

地味な活動に思えるけれど、動員力は馬鹿にならない。1会場に100人集めたら、講習会参加者だけで200万人にもなるのである。習った料理は講習後の試食会で食べることができ、レシピを教わって家で作り、家族で食べれば、味の体験者はすぐに何倍にもなる。

バウムは、目新しい料理を知ることが強力なエンタテインメントになることを、よくわかっていたのだと思う。カレーピラフやシチューなどの洋食から中華料理までメニューは幅広く、庶民にとっては珍しいものが多かった。ケチャップやマヨネーズ、ドレッシング、香辛料、化学調味料など、伝統的な食事では馴染みがなかった調味料もふんだんに使われた。それらを知り、味わうことは、当時の日本人女性にとって新しくてカッコ良いことだったのだ。

当然、主婦同士の情報交換も盛んに行われたに違いない。農村地域にキッチンカーがさっそうと現れたら、地域のニュースとしても広まる。日本の食品メーカーにとってもキッチンカーは絶好の宣伝になったはずで、新製品の開発にも力が入ったと思われる。

バウムのひらめき(?)に端を発したキッチンカー作戦は、こうしてまんまと成功を収めてゆく。台所に立つ女性にしてみたら、”素敵レシピ”をいろいろ試しているうちに洋食に目覚めてしまった感じではなかっただろうか。

ラーメンは町中華の不動の4番バッターだ

中華店が町に増えていった背景を考えていたら、つい面白くなってしまい、アメリカの小麦戦略について長々と記すことになってしまった。ラーメンが闇市の人気メニューになり、やがて庶民的な中華屋の誕生へと発展していくことになったのはなぜなのか、食糧難だったのに、原料の小麦はどこから手に入れていたのか。そこにはアメリカが深く関わっていたわけだ。

まあ、アメリカが力を入れていたのは給食でのパンの普及や、家庭に洋食を取り入れさせて、日本の伝統食では影の薄かった小麦粉を浸透させて、自国からの輸入量を増加させることにあったようなのだが、原料さえ確保できればこっちのもの。ラーメンは今日に至るまで庶民的中華メニューの主役の座を譲り渡すことのない、人気と実力を兼ね備えた不動の4番打者であり続けている。それでいて麺類、いや飯類を含めても、一番安い値段で提供されるのがいいところだ。

町中華の4番バッター、ラーメンは安い


僕は、町中華というのは「こういうスタイルの店をやろう」とコンセプトが先にあったのではなく、ラーメンという主役を手にした各店の主人が、どうすれば店が流行るか模索していくうちに、なんとなく出来上がってきたものだろうと思っている。闇市から商売を始めたところはもちろんのこと、戦前から開業していた中華料理屋も、戦争で焼け出されたりして、一から出直すはめになった。

そんな状況で、唯一と言っていい共通項がラーメンだ。この人気メニューを外す訳にはいかない。そこからスタートし、ある店では餃子をプッシュし、ある店では炒飯で評判を取るようになっていく。麺類がラーメンだけでは寂しいから、もやしそばもやってみようか、タンメンもいいのでは、とバラエティが出てくる。そのうち豚肉が入手できるようになったらちょっと豪華な麺類としてのチャーシュー麺が加わったりもする。

戦前からあったメニューが復活するパターンだけじゃなく、腹ペコ野郎のために量を増やしてみたり、中華の定食を始めるところも出てきただろう。売れるとなれば和食の中でメニューに入れても違和感のなさそうな丼ものも採用したし、洋食からすかさずカレーライスやオムライスを仲間に引き入れてしまうのも当たり前のことだった。なんだったら甘味を扱ってもいい。

カオス状態である。これは勢いあるなあ。町中華の黎明期だ。

ラーメンは絶対にあるから、ジャンル名はざっくり「ラーメン屋」ってことになっていて、でも「そば屋」と呼ばれたり、客のほうも適当だったりする。戦後に生まれた町中華は、とても自由な外食ジャンルなのである。

町中華のあけぼのである1950年前後には、僕などには想像できない、もっとヘンテコなメニューのある店も点在していたのではないだろうか。パン食をやってる店があっても不思議じゃない。でも、そういうメニューは客に敬遠されて姿を消し、だんだん店が淘汰される。逆に、流行ったメニューや味付け、店舗デザインは真似され、50年代後半あたりから、町中華の業態がなんとなくまとまっていく……。

おそらく、高度成長期の始まりと歩調を合わせるように進行していったのだろう。そして、それはアメリカが本格的な小麦戦略を進め、日本にガンガン小麦が輸入されだしたタイミングとも重なっていたのである。

主な参考・引用文献
『「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活』鈴木猛夫(藤原書店 2003)
『ラーメンの語られざる歴史』ジョージ・ソルト(国書刊行会 2015)
『ラーメンと愛国』速水健朗(講談社現代新書 2011)
北尾トロ(きたお・とろ)
ノンフィクション作家。1958年福岡県生まれ。2010年にノンフィクション専門誌『季刊レポ』を創刊、15年まで編集長を務める。2014年より町中華探検隊を結成。また移住した長野県松本市で狩猟免許を取得。猟師としても活動中。著書に『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』(文春文庫)、『欠歯生活』(文藝春秋)、『恋の法廷式』(朝日文庫)、『いきどまり鉄道の旅』(河出文庫)など多数。共著に『町中華とはなんだ』(立東舎)などがある。最新刊は『猟師になりたい!②』(角川文庫)。



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