夕陽に赤い町中華

北尾トロ



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町中華はどこから来たのか
町中華の味を決定づけた“化調”の流行(2)

味の素の工場見学に行ってきた

川崎市にある、京急川崎駅と小島新田駅を結ぶ京急大師線に「鈴木町」という駅がある。町と名がついているけど、鈴木町は人口0人。ほぼ全域が、味の素グループの工場と河川敷なので、誰も住んでいないのだ。

ここへ来たのは、前回提示した<[疑問3] 化調とはそもそも何なのか>の答えを知るためである。いや、少し違うか。株式会社味の素のサイトを見れば、会社の歴史を始めとする資料の数々がアップされ、味の素の誕生秘話から成分のことまで、詳しく丁寧な説明を読むことができる。でも、相手は町中華の発展に多大な貢献をしてきた化調。少しでもリアリティのある接近法はないかと考え、工場見学を申し込んだのだった。僕以外は小中学生と付添の母親しかいないので著しく浮いているが、熱意では負けない自信がある。

この工場は1914年(大正3年)の創立。現在は「味の素」「ほんだし」「Cook Do」を製造しているという。約10万坪、東京ドーム8個分と広大なため、専用のバスで工場の敷地内を見学して回った。さすが大企業、スケールが大きい。工場の建物がチャラチャラしてないのも製造業らしくていい……。まるで小学生並みの感想だが、味の素が作られる場所にいることで、工場と町中華の厨房とがつながっている実感が湧いてくるのが嬉しい。僕はこういう気持ちを味わいたかったのだ。

わざわざ見学者用に作られたシアターや、製造工程のジオラマも見事だったが、中でも発売当初からのボトルや缶などの実物が展示されているコーナーには興奮を隠せなかった。まさに宝の山。貴重な写真や、歴代の商品を目の当たりにして胸が踊らない町中華ファンはいないと思う。

1909年に一般向けに販売が開始されたころの味の素。
大瓶、中瓶、小瓶の3種類あった。


ここはじっくり見るべきポイントだと、説明文まで熟読していたら、案内係の人にやんわり先を促されてしまった。子どもたちは歴史の勉強より、見学の目玉である“味の素の封入体験”を早くしたいようだ。気持ちはわかるが、せめて1909年5月26日の東京朝日新聞に掲載された、味の素史上初の新聞広告を読み終えるまで待ってくれ。

僕は広告文を一読してショックを受けたのだ。大きな文字で記されたキャッチコピーが、<理想的調味料>と<食料界の大革新>なのである。しかも中央に配されているのは、昭和40年代まで味の素のトレードマークとなる“エプロンをつけた主婦”のイラスト。さらに目を凝らすと、<経済と軽便とを欲せざる主婦には味の素の必要なし>と、挑発的なコピーまで。グイグイきてるなあ。広告なのだから強気なのは当然だとしても、とんでもなく画期的な商品を発明したぞ、という自信がみなぎっている。

1909年5月、東京朝日新聞に出された最初の広告


味の素が昔からあることを知識として知ってはいたが、僕のイメージはもっと地味なものだった。一流レストランのシェフ向けに売り出されたとか、要するにプロ向けの商品だったのではないかと想像していた。でもそうではなく、手間のかかる出汁取りを容易にする便利な調味料として、当初から一般家庭向きに売り出されていたのだ。

でも、味の素は昭和30年(1955年)前後になってようやくメジャー化した印象がある。<食料界の大革新>をもくろんだものの、そうは問屋が卸さなかったのか?

普及の決め手は、片手で使える瓶だった!

味の素誕生のきっかけは、東京帝国大学理科大学教授だった池田菊苗(きくなえ)博士が、昆布のうま味はグルタミン酸によるものだと発見したことだった。池田博士は小麦粉を原料としてグルタミン酸ナトリウムを製造することに成功。海藻から取り出したヨードで事業を興した創業者の二代目鈴木三郎助が特許の共同所有者となり、事業化された。

特許を共有したのが1908年(明治41年)だから、すぐさま準備して、翌年の春に新聞広告を打ったことになる。ところが、気合とは裏腹に、スタート時はさっぱり売れなかったという。いくら便利な商品でも、出汁を取るのがあたり前とされる日本料理の伝統を突き崩すのは、そうカンタンなことじゃなかったようだ。

ここであきらめたり、社が潰れなかったことが、町中華にとってはラッキーだった。味の素、この商品に賭けるしかないと踏ん張るのである。

地道なマーケティングをし、値段を下げ、めげずに広告を打ってコツコツ売り上げる。醤油製造会社に、加味料として味の素を売り込んだり、味の素を作る際に副生される小麦でん粉を紡績会社に販売するなど、さまざまな営業努力も行った。また、早い時期から欧米やアジア各国で特許を取ったことも後の成功の一因。戦前は台湾、朝鮮、満洲、中国と販路を広げ、出だし苦戦したアメリカでも1930年前後にはキャンベル(スープ)やハインツ(缶詰)が味の素を原料として使うまでになった。日本国内ではいまひとつ実績が伸びないけれど、国外で実力をたくわえていたわけだ。

戦後数年たって、長年の努力が実を結び始める。戦中、戦後と限定販売しかできなかったグルタミン酸ナトリウムの統制が1950年に撤廃されるのである。これでやっと、戦前のような自由な価格設定や宣伝活動ができることになった。

生産体制を整え、サイズやパッケージの種類を増やす。戦前からの販売網に加え、あらたな特約店と契約する。営業部を新設する。関係官庁に陳情して、それまで50%もかけられていた物品税を10%に下げることにも成功。国内需要を引き出すための準備が着々と整えられていく。

味の素の公式サイトに掲載された『味の素グループの100年史』によれば、新製品の中で大きな意味を持ったのが、30グラム入りの食卓瓶だったという。

<耳かき大のスプーン使用から、ふりかけ式となり、中身が無くなったら缶や袋から瓶に詰められるようになっていた。このため、調理場でも食卓でも簡単に片手で使用できるようになり、「味の素」の使用範囲を拡大し、使用習慣を一変させる働きをした。>(『味の素グループの100年史』第5章 第3節 国内販売と広告の再開 より)

缶入りの味の素と、30グラム入り食卓瓶


これこそが、我が家の食卓にあった味の素だろう。初期の味がどうだったか知らないが、資料から察するに、味の素はデビュー時から完成度の高い商品だったと思われる。現在ではさとうきびの糖蜜を絞り、それを発酵させて作られるが、うま味成分がグルタミン酸ナトリウムである基本コンセプトは変わらない。ちなみに、うま味調味料という表現も、味の素は古くから使ってきた。昭和の時代には化学調味料が一般的だったが、時代の流れの中で「うま味」をよりプッシュするようになり、それが受け入れられて定着したと考えられる。

変わったのは戦後の混乱を乗り越えて成長しようとする世の中のほうだ。簡便さがより求められるようになり、いわば座が温まったところに便利な瓶詰めが登場したために、大歓迎されたのである。昔からある商品なのに、パッケージに新機能をつけたら、<理想的調味料>としてみんなが飛びついたのだ。

チャンス到来と見た味の素は1951年に広告部を独立させた。新聞、雑誌、野外広告、ラジオ広告……。積極的な広告宣伝活動も、今度は的を外さない。洋食や中華料理を家庭で作るのが流行って需要も伸び、売上高は1950年から1955年の間に7倍に達した。

“化調”がないと町中華じゃない!?

工場見学も終盤。子どもたちに混じり、味の素を6g入りのミニボトルに詰める作業を体験した。町中華のカウンター席から見ていると塩と区別しづらいけれど、間近で見ると少し粒が粗いかもしれない。詰めたてを手に取ってなめてみた。単独ではヘンな味としか思えない。調味料として使うと絶大な効果を発揮するのが不思議である。

しかし、これがあったからこそ町中華は人気が出たのだ。ていねいに出汁を取る店はもちろんいいのだけれど、技術を身につけるのに時間がかかり、脱サラして店を開いたりはしにくい。客の側から考えても、化調が生み出すガツンとした味は、汗をかいて働く労働者や営業マン、食べ盛りの学生にとって文句なくうまかった。

そういえば先日、ある店で化調の話をしていたら、「高いから、そんなには使えないんだよ」と、意外なことを言われた。化調は便利さと強い味をもたらすが、けっして安価ではないのだ。それでも、たいていの町中華で使われているのはなぜなのか。

使った店が売上を伸ばしたからとしか考えられない。元が取れたから、こぞって使うようになった。多くの店が使うことで、客は町中華の標準的な味を化調入りのガッツリ系と認識する。全国的にそうなるまでには何年かかるだろう。仮に10年だとすると、前回の東京オリンピックに向けて日本が活気づいている1960年前後という計算だ。

化調の流行以前に「オレの味」を作り上げた店は、さほど多くなかったはずである。あったとしても、流行を取り入れて少し化調を使う店主もいたと思われる。そういう店で修行し、独立した人も世の中の流れに呼応して、化調を使う。そのようにして化調派が主流になっていったのではないだろうか。自前の出汁を取らず、化調だけでやっていけるほど町中華の客は甘くない。出汁は当然作り、化調でもうひと押しして完成させるスタイルだ。

以前、取材した老舗の町中華でおもしろい話を聞いたことがある。化調の話題に触れると(つい尋ねてしまう)、こんなことを言うのだ。

「私から見て決定的だったのは、ハイ・ミーなんですよ。衝撃を受けましたね。コクがあるし、中華に合う。これはもう、みんな使うなと思ったし、そうなった。中華屋さんでは味の素よりハイ・ミー使ってるところが多いんじゃないかな」

コクの正体は、グルタミン酸ナトリウムにコーティングしたイノシン酸ナトリウムである。ハイ・ミーの発売は東京オリンピックまで後2年と迫った1962年。味の素に加え、さらにコク重視の新製品の登場で、町中華における化調はますます市民権を得ていった。

半世紀以上前、町中華に衝撃を与えたハイ・ミー。


そこから半世紀以上が過ぎた今でも、町中華の根本を揺るがすような、人気と便利さを兼ね備えた調味料は出現していない。町中華が進化をやめたせいなのか。違うだろう。化調という強力な助っ人を得て、町中華の味というものが、なんとなく客に行き渡り、定着したのだ。客がじゃんじゃんくるのに味を変えようとする店主はいない。世代交代も怖くなかった。若い客であればあるほど、家庭料理やインスタント食品で化調に馴染んでいるからだ。

かくして化調は町中華らしさの象徴として、なくてはならない存在となった。ときには舌ビリビリのつらさを味わうこともあるけれど、油流しで立ち直れる程度のことなら、それも町中華の楽しみだと笑って済ませよう。

ミニボトルを作り終えた見学者に、味の素を使ったスープが配られた。子どもたちが「おいしい」と言っているのが聞こえた。おかわりを求める少年までいる。

ぜひ、その味を覚えておいてくれ。もう少し大きくなって、町中華で食事をする機会に恵まれたとき、なんともいえない懐かしさを感じるキミこそが、町中華の未来を支えていく人になるのだから。

主要引用・参考文献
『味の素グループの100年史』(株式会社味の素公式サイト)
『AJINOMOTO グルーバル競争戦略』林廣茂(同文舘出版 2012)

※掲載写真はすべて著者が工場見学で撮影したものです。
北尾トロ(きたお・とろ)
ノンフィクション作家。1958年福岡県生まれ。2010年にノンフィクション専門誌『季刊レポ』を創刊、15年まで編集長を務める。2014年より町中華探検隊を結成。また移住した長野県松本市で狩猟免許を取得。猟師としても活動中。著書に『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』(文春文庫)、『欠歯生活』(文藝春秋)、『恋の法廷式』(朝日文庫)、『いきどまり鉄道の旅』(河出文庫)など多数。共著に『町中華とはなんだ』(立東舎)などがある。最新刊は『猟師になりたい!②』(角川文庫)。



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