夕陽に赤い町中華

北尾トロ



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町中華の黄金期~
ワリバシは踊り、鍋は炎に包まれた
絶頂の80年代、ギターを中華鍋に持ち替えて(1)

独立組と老舗2代目が重なった第1のピーク

町中華の全盛期はいつなのか。この質問に答えるのは難しいが、現在に至る流れの中で注目すべき時期は3度あった、と僕は考えている。

最初は言うまでもなく1950年代(昭和20年代後半から30年代前半)の黎明期。戦後の混乱期から脱しつつあったこの時期、さまざまなルートから大衆的な中華料理にたどりついた人たちが店を持つようになったことは、これまでにも書いてきた。

ここからどうなっていったのか。

町中華の発展ぶりが一発でわかるようなデータはないので、老舗店などで聞いた話から推測しつつ、戦後からの流れを整理してみよう。

1950年代に開業した町中華では、台湾や中国の料理人を雇い入れたり、戦前から飲食店で働いていた人たちが厨房の中心。従業員はいろんなルートから入ってきただろうが、初期は血縁関係や、店主の地元出身者など、何らかのつながりを頼って集まるパターンが多かったらしい。それはそうだ。雇う側にしてみれば身元が確かであるに越したことはないし、雇われる側だって使い捨てにされたくはないもんなあ。

どんぶりも昔は小さかった。ラーメン用は直径14センチ、五目そば
などに使う一回り大きなどんぶりでも直径15.5センチしかない。


黎明期の町中華は、親方である店主とその家族、従業員たちが強く結びついた”大家族”。雇い主は、従業員用の部屋を作って、共に暮らしながら一丸となって仕事に励もうとした。これは嫌でも絆が深まるし、従業員にしてみたらヤル気も出るシステム。ここにいれば腹いっぱい飯が食えて、畳の上で眠ることができる。食事と住むところが保証されているのは大きなメリットだ。

目標設定もしやすい。自分の人生、ここを起点になんとか切り開いていかなきゃ。まずは中華の技術を覚えて一人前になる。そして、ゆくゆくは自分の店を持ちたい。その頃には結婚も考えたい。店を繁盛させて子どもに継がせたい。

マジメに働いていれば叶いそうな、程良くリアリティのある夢。そりゃ本気になるよ。ますます頑張れる。小遣い稼ぎのアルバイトとはモチベーションの高さが違う……。

修行期間の相場はだいたい10年前後。つまり、1965年(昭和40年)前後から、料理の腕を身につけ、開業資金を調達できた従業員の独立が始まっていったと考えられる。

店主もそのことを渋らなかった。従業員を一人前に育て上げ、独立を支援することは、店主にとって誇らしいことだからだ。

新しい屋号で自分の店を始める人もいたが、独立組が好んで選んだのは、働いていた店の屋号を使用する”のれん分け”だった。新しい店ができる。あの繁盛店と同じ店名だと客は興味を抱き、そこで働いていた人が出した店だろうと察しをつけ、ならば一度食べてみようとやってくる。のれん分けは、独立した従業員のスムーズな門出を後押しする”親心”の産物でもあるのだ。

丸長グループであることがわかるのれん


おっと、のれん分けは急速に死語となりつつある言葉だから、いまの駅前を埋め尽くすチェーン店を連想する人がいるかもしれない。全体を統括する本部があって、それぞれの店で同じ味とサービスを提供するスタイルである。でも、のれん分けとチェーン店は別物と考えて欲しい。

チェーン店と同じだと思ってのれん分けグループの店へ行ったら、きっと驚くことになるだろう。ほとんどの場合、メニューの種類から味付け、値段までバラバラ。共通項はダシの基本と使っている製麺所(手打ちの場合はその手法)だけだったりするからだ。もちろん接客マニュアルなんてものは存在すらしない。

自分の好きなあの店と味が違うじゃないかと怒ってはならない。こういう、いい意味でのユルさや自由さこそが町中華ならではの魅力。のれん分けの店でありながら、客のニーズに合わせて独自の進化を遂げたことを認め、なぜこの味やメニュー構成にたどり着いたのかと想像をめぐらすことも、町中華探検の醍醐味の一つなのである。

独立されたら人手不足になるのではないか。心配ご無用。代わりの労働力も潤沢だった。中学を卒業すると同時に集団就職で地方から都会へやってくる若者がたくさんいたのだ。従業員が独立しても、それまでいた店はさほど困らなかっただろう。また、店主が親代わりとなって従業員の面倒をみる大家族的雰囲気も維持されていくことになる。

高度成長期の集団就職は、1955年(昭和30年)頃に始まったと言われている。“集団就職列車”と呼ばれた青森発上野行き臨時夜行列車は1954年(昭和29年)に開始され、1975年(昭和50年)に終了するまで21年間運行された。産声を上げたばかりの町中華を、若くてエネルギーに満ち、一所懸命働いてくれる彼らが支えたであろうことは想像に難くない。

貯蓄に励み、親類などの援助も受けられた(もしくはどこからか借金することができた)集団就職組が、10年で独立を許されたとすると、20代半ばで一国一城の主になれたことになる。町中華店主には、30歳までに独立することが目標だったと語る人が多く、上昇志向が強かったんだなあと感心してしまうのだが、スタートの早さを思えば、30歳で自分の店を持つことは標準的な目標だったのかもしれない。

地方から上京して中華料理を学んだ彼らのなかには、地元に帰って店を始めたり、ライバル店の少なそうな地方都市に目をつける人も少なからずいただろう。戦後に人気が爆発した味の素が町中華らしい味のイメージを決定づけたとするなら、店舗の外観や内装、メニュー構成などを広めて行ったのが、彼らのような独立組だったのだろうと僕はニラんでいるのだ。実際、地方都市の町中華へ話を聞くと、初代店主が東京の町中華(本格的な中華料理店の場合もある)で働き、地元に戻って開業したパターンによく遭遇する。

1970年代の盛り上がりを経て1980年代の絶頂期へ!

さて、代替わりの時期は店により異なるとしても、ボリュームゾーンは開業10~20年あたり。1955年(昭和30年)の開業なら1965~1975年(昭和40~50年)にかけて新陳代謝が進む計算だ。

間を取って、1970年(昭和45年)の状況を想像してみよう。老舗店は代替わりを済ませたものの、初代もまだ現役で、2代目と一緒に厨房に入っている。この先も長く商売していく気満々だから、将来への投資と割り切って、ガタがきはじめた店舗の改装を行う気にもなれる。

一方、のれん分け・独立組も商売を軌道に乗せ、さらに数を増やそうとしている。店主の年齢層は30代が主流だ。景気は相変わらず好調。巷ではラーメン専門店も現れていたが、大衆向き中華部門の覇者は町中華で揺るがない。ぼくはこの、代替わりとのれん分け・独立組の台頭が重なる時期を、町中華史における第1のピークと呼んで差し支えないと思っている。

豊富なメニュー、客から見える厨房、家族経営。現在の典型的町中華。


しかし、全盛期はまだ先にあった。競争の激化で不人気店が淘汰されても、それを上回る新規店が生まれていったのだ。理由は簡単。1975年(昭和50年)以降になると、のれん分け・独立組で修行した人が独立の時期を迎えたのである。

さらに、のれん分け・独立組が結婚し、授かった子どもたちが成長し、代替わりの時期がやってくる。時は1980年代。ラーメン専門店に加え、チェーン店やファミレスも登場して外食産業の主導権争いが勃発する中、出前と常連客という強みを持つ町中華も地味ながら善戦。右肩上がりで絶頂に向かう日本経済にも後押しされ、一歩も引かずに踏ん張っていた。町中華は数も多く、人気も高値安定している飲食業になったのだ。

その頃の勢力図を整理してみよう。

[老舗]:開業約30年。2代目が40代に差し掛かり脂が乗っている。
[のれん分け・独立組]:独立間もない新規店、独立店の2代目も現れ、若さとパワーで勢力を拡大

だが、このような“正統派”だけで、ちょっとした町の駅前に立てばいくつも看板が目に入るほどの隆盛を極めることができただろうか。否である。町中華は、ソコソコの味、店舗、サービスでも手堅く儲かる業種。そりゃ経営上の苦労はあるだろうが、いったん地域に根を下ろしさえすればそう簡単にはつぶれない。あそこも、ここも、突出したものが感じられないのに常連客をガッチリ捕まえている。だったらオレも一丁やってみるか……。

そう、町中華全盛期を後押ししたもう一つの要素は、脱サラや商売替えをもくろむ人の参入だった。なにかと敷居の低い町中華は、他業種からの参入を誘いやすいジャンルだったところへ、1980年代後半、日本全体を覆ったイケイケな空気と金余りが独立志向者たちの背中をグイグイ押し、「今がチャンス!」とばかりに前へ前へと進ませたのだ。

次回はその中のひとつ、僕がかつて仕事場を借りていたJR中央線の西荻窪に店を構える「丸幸」にスポットを当て、1980年代という町中華の絶頂期に迫ってみたい。
(次回につづく)

北尾トロ(きたお・とろ)
ノンフィクション作家。1958年福岡県生まれ。2010年にノンフィクション専門誌『季刊レポ』を創刊、15年まで編集長を務める。2014年より町中華探検隊を結成。また移住した長野県松本市で狩猟免許を取得。猟師としても活動中。著書に『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』(文春文庫)、『欠歯生活』(文藝春秋)、『恋の法廷式』(朝日文庫)、『いきどまり鉄道の旅』(河出文庫)など多数。共著に『町中華とはなんだ』(立東舎)などがある。最新刊は『猟師になりたい!②』(角川文庫)。



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