夕陽に赤い町中華

北尾トロ



18

町中華の黄金期~
ワリバシは踊り、鍋は炎に包まれた
絶頂の80年代、ギターを中華鍋に持ち替えて(2)

町中華で聞きかじる在りし日の西荻窪

町中華探検隊を結成して以来、僕はチャンスがあれば店主に話しかけ、店の歴史やメニューの変遷などを聞くようになった。怪訝な顔をされても、知りたい欲求にまかせて食い下がっているうちに、いい話が聞けることもある。何十年間も店を張っている店主の話には独特のリアリティがあって、どんなガイドブックにも載っていない逸話の宝庫なのだ。

たとえばこんな話である。1970年代の神保町にはやたらと麻雀荘が多く、その割に出前をする中華屋が少なかったため、夕方以降は大忙し。出前専門のスタッフも雇うほどだった。そして店主は、毎日のように出前に行く麻雀荘の女性経営者と恋に落ち結婚した。

と、今度は女将さんが話し始める。再開発以降めっきり減ってしまったが、当時の神保町には小さな出版社、印刷屋写植屋、製本屋がたくさんあって、麻雀層はそんな人で賑わっていたという。

「何か商売がしたくて麻雀荘を選び、店も流行っていたのに、なぜか中華屋の女将になっちゃったのよねぇ」

20代の女性が麻雀荘を経営しようと思い立ったのは、神保町という町が”健全な喧騒”に満ちた場所だったからだろう。僕が神保町の編集プロダクションでバイトを始めた1980年代半ばも、まだそんな雰囲気が残っていたように思う。あの頃、麻雀荘に行っておけばよかったなあ。

取材の本筋には関係ない、個人的な話だけれど、聞いているうちに麻雀牌をジャラジャラかき混ぜる音が頭の中に響き、僕は見たことのない光景を楽しく思い浮かべるのである。

とはいえ、町中華探検隊を結成する以前の僕は、店主に話しかけるなんてしたことがなかった。カウンター席より、店主から離れたテーブル席が好きで、座ると即注文。テレビがついていればぼんやり眺め、なければ新聞か雑誌を探す。それもなければ文庫本を取り出して読む。食事が出てきたら黙々と食べてサッと席を立ち、会計を済ませて外へ出る。滞在時間は20分もあれば十分。常連客が店主と楽しそうに話をしていても、耳をそばだてることはない。その頃の僕は、ひとり静かに腹を満たす場所としてしか町中華を利用していなかったのだ。

しかし、一軒だけ例外があった。それが西荻窪の「丸幸」である。僕は2016年の春まで西荻窪に事務所を構えていたのだが、駅まで向かう途中にある唯一の町中華がこの店だったのだ。

引っ越しで西荻窪を去る常連客が置いていった植物で店の前はいっぱいだ。


「丸幸」はカツ丼やオムライスは扱わず中華メニューだけで勝負する店だ。生活導線上にあるし、味が好みに合う。それでときどき寄っていたが、しばらくは食べたらすぐ出る客だった。顔を覚えられ、「毎度ありがとうございます」などと声をかけられると入りにくいではないか。

また、夜になると一杯やる客が多くなり、常連率が高くなるのも特徴。町中華探検隊では飲み屋としても機能している店を“飲み中華”と呼び、ひとつのジャンルと捉えているのだが、「丸幸」にもそんなところがある。グループで賑やかにふるまう客は少なく、ひとりで来て餃子をつまみにビールを飲み、テレビで野球観戦などしつつ店主と雑談。頃合いを見て〆に小ラーメンを頼むような客が中心だ。

どことなく哀愁が漂う彼らは、夜の町中華に欠かせない存在。彼らがいるだけで日常感がぐんと増す。年齢層は高い。居酒屋のように騒ぎ立てるわけでもない。会話もそんなに盛り上がるわけじゃなくて、昔話とプロ野球と近所の噂話でほぼ成り立っている。しょっちゅう顔を合わせるメンバーが、家で一人飲みもつまらないとやってくる店に、大きな話題など必要じゃないのだ。

月に1度のペースでも、何年か通っていれば常連客の顔ぶれはわかるようになってくる。友だち相手のように会話をする店主や女将さんとのやり取りにも慣れてくる。

ある晩遅く、たまたまカウンター席に座ったら、昔の西荻窪がどうだったかという話が始まった。僕が頼んだ味噌ラーメンを作り終えると、注文が一段落した店主もビールグラス片手に参戦。その話が面白いのだ。

曰く、高架ができる前の駅前には踏切があり、夜になると、勤め人や途中下車して一杯やる人をゲットすべく、飲み屋の店員が踏切の向こうで待ち構えていた。和服姿の綺麗な女性店員もいたりして、踏切待ちの間にどの店に行こうかと考えるのが楽しかった。

曰く、西荻窪駅は改札が荻窪寄りの1カ所だが、吉祥寺寄りにもう1カ所作る計画があると噂されていた。ちょうどその頃、物件を探していた店主は、改札が増えたら絶好の立地になると思い、現在の場所に出店を決めたが、待てど暮らせど改札はできない。おかげで「丸幸」は開店以来ずっと、人通りの少ない裏道で営業している。

こういう話を詳細に語られたら反応せずにはいられない。最初は笑っていただけだったが、そのうち質問までして根掘り葉掘り聞いてしまった。わが町中華人生で初めて、食べ終えてから30分も居座ったのである。

この夜以来、店を出るときかけられる言葉は「ありがとうございます」から「毎度どうも!」に昇格。食べに行くと「今日は暑いね」といった挨拶もされるようになった。後に聞いたことだが、客の中には話しかけられるのを嫌がる人もいて、僕もその一人だと思っていたらしい(実際そのタイプだった)。

僕と「丸幸」は徐々に親しくなり、松本に住み西荻窪の事務所と行き来していることや、どんな仕事をしているかといったことも話すようになった。わざわざ話す必然性はないけど、何者かを隠す必然性もまたないからだ。そうなると、町中華めぐりを始めたことも言っておきたくなるし、事務所を引き払ってからも、西荻に来たときはご主人や女将さんに会いに行きたくなる。

北尾が好きな味噌ラーメン。大きな丼で食べごたえ満点だがくどくない。


そして僕は思ったのだ。1988年に開業した「丸幸」の歴史は、町中華最後のピークと重なる部分が多いのではないか。断片的なエピソードだけではなく、ひとりの男が高度成長期からバブル期を駆け抜けてきた物語として、じっくり話を伺ってみたい、と。

1946年生れ、団塊世代のご主人は70代となり、この先どこまでやれるか、気力・体力と相談しながら日々を過ごすことになるだろう。いまのところ鍋を振る動作は軽快で、年齢を感じたことなど一度もないが、最近は前ほどガンガン飲めなくなったと言っている。後継者のいない「丸幸」は、ご主人がやめようと思ったらそれでおしまい。店がなくなれば僕との接点もなくなる。詳しく話を聞くなら現役バリバリの今がいい。

22年間、流しの歌手だった!

「オレはもともと飲食業に興味があったんじゃないの。福島県の田舎で育ったんだけど、夢があった。それは、歌手になること」

ご主人の渡邊久さんがスパッと言い切られ、思いがけない答えにビックリした。そうか、歌手に憧れたか。のど自慢大会で優勝したりとかしたのだろうか。
「全然。ただ歌が好きだった。三橋美智也とか、当時の流行歌手に憧れて、オレは歌手になるために東京さ行こうって決めた」

大胆というより無謀だ。しかしこれ、実現するのである。修行らしいこともせずに18歳で上京した渡邊さんは、本当に歌手になるのだ。

「当てはあったの。新聞の広告を見て連絡し、それから上京したからね」
 渡邊さんが見たのは、流しを派遣する芸能事務所が出した歌手募集広告。ぼんやりと思い浮かべていたのは、今風に言えばバンドのボーカリストだったらしいが贅沢は言ってられない。流しが何をするかもわからないまま、歌手になれるならと、杉並区上石神井にあった芸能事務所の門を叩いた。

「流し専門のところでね、所属歌手も20人ほどいたんじゃないかな。話聞いたら、飲み屋を回ってリクエストに答えて歌う仕事。やった、歌手になれる。ぜひやらせてくださいとお願いしたよ」

カラオケなどない時代。それでも人は、飲めば歌を聞きたい、歌いたい。流しの歌手はそうした要望に応えるべく、店から店を回って客の注文を受けてギターを弾きながら歌うのだ。いまでは絶滅したに等しい稼業だが、それ専門の芸能事務所まであり、1970年代あたりまではプロとしてやっていけるだけの需要があったのである。

「歌うことしか考えてなくてギターが弾けなかったんで、毎日2時間練習して覚えた。事務所の社長が師匠で、半年かそこら教えてもらった。最初は綱島の友達のところに居候したんだけど、遠いので1ヶ月で出て、住み込みの弟子にしてもらったの。行くとこないならウチにこいよって。師匠にはずいぶん世話になったよ」

なんとかギターを覚え、曲が弾けるようになると、先輩にくっついて実地練習。それが終わるともうひとり立ち。所属歌手・渡邊久の誕生である。担当地区は中央線の中野〜西荻窪間と決められ、飲み屋街を歌い歩く日々が始まった。

ギャラは完全歩合制で、事務所と歌手で折半するシステムだった。料金は2曲で100円だったという。デビューした1964年、公務員の大卒初任給は17100円。週刊誌の値段が50円だったから、一晩に20組のリクエストがあれば手取り1000円の流しは悪くない収入だ。そうやって実力と資金を増やしながら本格デビューを狙ったのか。

「いや、オレは別に流行歌手になろうとしたんじゃなくて、歌手になれればよかったの。稼げたし、お客さんに飲ませてもらえるし、流しで満足だったね。若かったせいもあって、けっこう人気があったんだよ。店行くと、よぅ待ってたよ、アレ歌ってくれよ、なんて。飲み屋を回る流しは、酔っ払いたちと一緒にいるから、意外に世の中の流れに敏感なの。あの頃は景気が良いというか、明日は今日より良くなると信じられた時代だったのかな。チップもよくもらったのさ」

なかなか中華の話にならないが、仕方がないのである。なんと渡邊さん、40歳になるまで、22年間も流しをやっていたのだ。30歳になる頃には結婚して家庭を持ち、ローンを組んでマンションを購入。稼ぎも絶好調でやめる理由がなかった。その後、カラオケの登場で需要は減るが、お得意さんをガッチリ持っていたため、急に失速することもなかったという。

「流しは、やめてから飲み屋をやる人が多いんです。わかりやすいでしょ。でも、先輩たちを見ていたらだいたい失敗してる。修行もせずに始めることが多いし、客と一緒になって飲んじゃって、身体を壊す人もいたよね。だから、飲み屋はダメだなと。といって、歌しかやってこなかった自分に何かできるとも思えず……」

なかなか将来設計をしない渡邊さんに業を煮やしたのが、姉さん女房の泰子さん(女将さん)だった。流しという職業はいつまでもできることではない。余力のあるうちに次の道に踏み出さないと危険だという思いから、何か資格をとることを勧め、1976年に調理師免許を取得させていた。仮に飲み屋をやることになるとしても、飲ませるだけの店では繁盛しないと考えたのだ。

この判断がポイントだった。1980年代に入って、予想通り流しがカラオケに押され始めると、泰子さんはこの先の人生をどうするつもりなのか、せめて目標なり計画を出すよう久さんに迫る。

「37歳だったから1983年頃かな。どうすんの、なんて言われてさ、思わず言っちゃったんだよ。ラーメン屋やるって」

唐突だ。それ、本気で言ったのか。

「正直言って苦し紛れだった。自分で驚いたもん、オレ、ラーメン屋になるのかって(笑)。でも言っちゃったものはしょうがない。やろうと決めて動き出したよ」

重い腰を上げ、修行先を探す。つてを頼り、神保町の名店「伊峡」で働かせてもらえることになった。なるべく早く独立したいと伝えて、皿洗いや出汁のとり方からスタート。夜は流しをしていたから、睡眠不足でフラフラになりながら仕事を覚えていく。

だが、ここが勝負どころという気持ちの強さでは泰子さんのほうが上手だった。それなりに貯蓄はしてきたが、商売をするには資金が足りない。といって、亭主は限界まで頑張っている。

どうしたか。子育てと家事に追われつつ、新聞配達のアルバイトを開始するのだ。
(次回につづく)

北尾トロ(きたお・とろ)
ノンフィクション作家。1958年福岡県生まれ。2010年にノンフィクション専門誌『季刊レポ』を創刊、15年まで編集長を務める。2014年より町中華探検隊を結成。また移住した長野県松本市で狩猟免許を取得。猟師としても活動中。著書に『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』(文春文庫)、『欠歯生活』(文藝春秋)、『恋の法廷式』(朝日文庫)、『いきどまり鉄道の旅』(河出文庫)など多数。共著に『町中華とはなんだ』(立東舎)などがある。最新刊は『猟師になりたい!②』(角川文庫)。



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