夕陽に赤い町中華

北尾トロ



最終回

町中華の黄金期~
ワリバシは踊り、鍋は炎に包まれた
絶頂の80年代、ギターを中華鍋に持ち替えて(3)

鍋の振り方は風呂場で会得した

成り行きで「ラーメン屋になる」と宣言したご主人の渡邊さんは、流しの歌手を続行しつつ神保町の「伊峡」で修行して、「丸幸」を3年後に開店する。僕がおもしろいと思うのは、渡邊さんがイメージした店がラーメン専門店ではなく、町中華スタイルの店だったことだ。

2018年のいま、ラーメン屋をやりたい人が思い浮かべるのは、間違いなく専門店のほうだろう。でも、1980年代半ばはまだ、ラーメン屋=町中華のことだった。専門店はすでにあったけれど、駅前のいい場所に陣取っていたのは町中華店だったし、流行ってもいた。また、専門店を名乗る店でもラーメン一筋のところは少なく、たいていは炒飯を始めとする飯類や、ラーメンとそれらを組み合わせたセットメニューを取り入れていて、実質的には町中華と言ってよかった。ラーメン屋を目指す渡邊さんが、幅広いメニューを備えた店を思い浮かべたのは、ごく自然なことだったのだ。その事実が、全盛期を迎えていた町中華の状況を物語っていると思う。

にしても、初期の町中華では修行期間10年で独立するのが相場だったことを考えると3年間は短い。これはよほどがんばったなあ。

「そうだねえ。私は怠け者のほうだけど、あの頃だけは自分でもよく働いたと思うよ。昼間は店で、夜は流しでしょ。とにかくいつも眠かった。でも、30代後半で家族もいたから必死だったよね」

歌手になりたくて、18歳で上京したときとは状況が違う。女将さんもその気になってるし、引くに引けない。

「カアチャンのプレッシャー? そりゃあったよ、ははは。新聞配達してがんばってるんだからさ、自分もやめられないぞと思うでしょ」

世の中は好景気で、バブル時代を迎えようとしていた。それはそのとおりだけれど、誰もがいい思いをしていたはずはなく、放っておいても成功できるわけでもない。地力をつけるには地道な努力を積み重ねるしかないのだ。

でも、具体的には何をしたのだろう。学校じゃないのだから、修行先では手取り足取り教えてはもらえない。皿洗いや掃除、せいぜい野菜を切るなどの仕事が与えられるだけだ。出汁のとり方や調理の手順は見ていればわかってくるとしても、実戦のカンを磨くことは難しそうである。

「師匠のやっていることをよく見て盗むというのかな。真似ですよ。こうするのかな、なんて想像しながら自分でやってみる」

家庭用のガスコンロでは火力が違うから、同じようにできないのでは?

「そう。味付けなんかは真似できてもぜんぜん違うものになっちゃう。というか、私が家でやっていたのはもっと基礎的なことです。たとえば鍋振り。あんな大きくて重たい中華鍋なんて振ったことないからね」

どうやったら師匠みたいに軽々と扱えるのか。中華鍋を買って自宅でやってみても、まるでうまくいかない。本当に難しい。しかし、鍋が振れないようでは店など開けるはずもない。で、渡邊さんは何をしたか。流しの仕事を終えて帰宅した後や店の定休日になると、中華鍋を持って風呂場にこもるのである。

「塩とか濡れタオルを鍋に入れてひたすら振ってました。重さに慣れる意味もあるし、手首の使い方などを覚えられる。塩は重さもあるし、安いのでよく使ったなあ。ただ、シャカシャカうるさいのよ。だから風呂場でやる」

カラダでリズムが取れるようになるまでは、すぐに腕が疲れてしまったが、コツをつかむにつれ、長時間の鍋振りが可能になったそうだ。一事が万事で、野菜を切る技術も、調理の段取りなども、「伊峡」で記憶したことを自宅で復習していく。渡邊さんには時間がなかったから、そうするしかなかったのだ。

かつての風呂場トレーニングの成果がいまも味に生きている


女将さんの泰子さんは、それを見てシメシメ本気になってきたぞと?
「あはは、それじゃ私が無理やりやらせたみたいじゃない。ウチの人が実直な性格なのは知っていたわよ。私は私で新聞配達して子供の面倒見なきゃなんないでしょ。もう、毎日が戦争みたいだった」

料理のことはご主人の担当。資金調達の計画と管理が女将さんの担当。店を開くという目標を達成するため、役割を分担してがむしゃらに働く日々だったという。

「本当に店なんて持てるんだろうかって不安と、やるしかないという気持ちの両方がせめぎ合うの。私は借金して店を出したくなかったの。景気のいい時代だったから借りられたかもしれないけど、家のローンがたっぷり残っているのに、そんなことをしたら絶対失敗すると思ってた。でもよく働いたと思いますよ。店を始めてからも働き通しだけど、あの3年間は特別。二度とできない。思い返しても、よく倒れなかったなと思います」

開店資金のメドがついたところで物件探しがスタート。西荻窪の賃貸物件に候補地を絞り込んだ。前回触れたように、目の前に新しい改札口ができるという噂を聞いたせいでもあるが、決め手となったのは居抜きで使える物件だったこと。ここは以前、食堂があった場所で、閉店して時間が経っていたため汚れていたが、しっかり者の女将さんは、掃除をすれば内装に金をかけずに開業できると考えたのだ。

「業者になんか頼めないから、床磨きから自分たちでやりました。1カ月もかかっちゃったわよ」

内装工事をせずに節約した分は厨房設備に使った。他のことは改装したりしてやり直しが効くけれど、厨房はそうもいかない。店にとって要となる料理を作る場所だからだ。設備の位置やサイズによって、渡邊さんの動線も決まってくるため、長く使える良い設備を入れることにした。賃貸契約料や備品も含め、なんだかんだで1200万円かかったそうだ。

30年ぶりにギターの練習を始めたんだよ

1988年、3年間の修行期間を経て「丸幸」がオープン。メニューの種類は当初から麺類を中心に飯類、定食、単品まで揃えたという。

やるからには最初からと力んだわけじゃなく、そうするのが合理的だから、何の迷いもなかった。主力商品のひとつであるタンメンには、キャベツやニンジン、タマネギやもやし、豚バラ肉などを使うが、同じ構成で野菜炒めができる。餃子で使うひき肉は味噌ラーメンでも使う。材料を使い回して使い切れば、常に鮮度のいい肉や野菜で調理できて味もいいのだ。値段は、ラーメンを当時としても安い350円に設定し、それを基準に決めていった。修行先の「伊峡」がそうだったからだ。自分のレベルで、師匠の店より高い値段を付けるわけにはいかないではないか。

うっかり「ラーメン屋になる」と宣言したことが現実のものとなる。店主になった渡邊さん、気分はどうだったのだろう。

「いまもけっこうあるけど、当時は中華屋がたくさんあったから、素人に毛が生えたくらいの経験しかないオレの店にきてくれる人がいるんだろうか、とは思ったよね。でも同時に、なんとかなるんじゃねぇかな、とも思ってた」

根拠もなく楽観的になれる。それこそ時代の恩恵だろう。数カ月前まで、中央線の飲み屋街で流しをしていて、景気の良さを肌で感じていたのだ。

「高望みはしてなかったから。人を使って、ゆくゆくは支店を出して、大きくしていこうとは思わなかった。家族が食っていければそれでいい。それくらいなら自分にもできるだろう。そういうふうに思ってた」

40歳から始まった第二の挑戦。緊張の面持ちでオープン日を迎えたら、あら嬉しや、切れ目なく客が入ってきて順調なスタートとなった。「伊峡」のご主人もわざわざ来店。弟子が作ったラーメンを食べ、「これならいい」と合格点を与えてくれた。これは内心不安だった渡邊さんにとって、飛び上がりたくなるような一言だった。

それにしても、宣伝費を掛ける余裕などなく、裏通りでひっそり始めた店がどうして賑わったのか。新しもの好きな住民がチェックしに来たのか。

「知り合いですよ。流し時代の常連のお客さんや、歌手の仲間がきてくれたの。とくに常連の方ですね。これでも私、けっこうファンがついてたんですよ。長くやってもいたし、そういう方がある程度きてくれると期待してはいたんだけど、嬉しい誤算がありました。みんな、友だちを連れてきてくれたんです」

知り合いの流しの歌手が店を始めたから一緒に行こう。気に入ったら贔屓にしてやってくれ。飲み仲間をたくさん持つ、地元で影響力のあるオヤジたちが、頼みもしないのに宣伝マンになってくれたのだ。

ただし、渡邊さんは、ファンから「一曲頼む」とせがまれても歌うことはしなかった。自分は流しを引退してラーメン屋になったのだから中途半端なことはしたくないと一線を引いたのである。飲み屋に転身して失敗する先輩を見てラーメン屋を志したのに、店で歌ったりしたら意味がない。

また、リクエストをはねつけたのは、歌手への未練を断とうとする意志の表れでもあった。開業してからは、愛用のギターを自宅にしまい込み、触ろうともしなかったそうだ。

「おかげさまで開店早々忙しくなって、てんてこまいの毎日だったね。張り切って出前もやったんだ、2年間。注文はたくさんきたよ。でも、夫婦だけでやってるでしょ。出前すれば儲かるけど、カラダ壊しかねない。人を雇うか出前をやめるかとなって、やめちゃったんです」

歌いはしないが、仲のいい客が来れば一緒に飲むことはある。一日の大半を厨房内で過ごす渡邊さんにとって、酒は最大の息抜きなのだ。当時は酔って店に泊まってしまうこともよくあったらしい。「丸幸」にかぎらず、町中華ではのれんを下げた後でも人の気配や笑い声がすることがあるが、あれは店主と馴染客が一杯やっているのかもしれない。

「40代なんて、いまから思えば若いよね。疲れてもすぐ回復できるから飲みすぎちゃってね。でも楽しかったよ。充実感があったね」

1990年代に入るとバブルが弾けたものの、町中華のように生活に密着した商売に大きな変化はなかった。開店してから知り合った客が馴染みとなるころには、渡邊さんも女将さんも商売が板につき、店は完全に軌道に乗っていく。

「お客さんたちが盛り上がって『丸幸会』というのを作ってくれてね。我々の商売は休みが少ないでしょ。定休日には家のことをしなくちゃいけなかったりで旅行もできない。そこで年に一度、『丸幸会』で旅行に行こうと。厳島神社とか行きましたね。あと、バーベキューに出かけたり」

「丸幸」は2017年に30周年の節目を迎えた。その年月は、たとえば店頭にわんさか置かれた鉢植えに表われていると女将さんが笑う。

「常連の方が引っ越すとき、うちに持ってくるんですよ。捨てるのは忍びないから面倒見てくれって。頼まれたら断れないし、花も好きだから引き受けるうちにこんなに増えてしまったのよ」

店頭にやたら鉢植えがあるのは町中華の特徴の一つなのだが、そういう理由もあったのか。たしかに統一感のないところが多いなあ。
「お客さんの置き土産です、ははは」

後継者になるはずだった息子さんが早世したため「丸幸」は一代限りの店となる。70歳を超え、以前ほどハードに鍋が振れなくなってはきたけれど、調理の素早さ、テンポの良さは健在だ。掃除の行き届いた店内も、初めて来たときと変わらない。とくに厨房のピカピカぶりには惚れ惚れすると言ったら、女将さんが「気づいてくれて嬉しい」と身を乗り出した。

「夫婦で店にいる時間が長いのに、そこが汚れていたり不潔だったら、お客さんだけじゃなく自分たちも嫌じゃないですか。この人(ご主人)のいいところはきれい好きなところ。手の届くところは天井まで、いつも磨いているんです。北尾さん、厨房に入ってみます?」

広々とした厨房にはゴミひとつない。大量の油を使用するのにどこを触ってもベトつかない。鍋や食器も磨き抜かれている。感心しながら振り向くと入口が正面に見えた。カウンター席もテーブル席も視野に入り、客の動きがひと目で把握できるレイアウトになっている。なんだかいい気分だ。まさに「オレの店」という感じがする。

天井まで磨き上げられた厨房


席に戻って女将さんと雑談していたら、渡邊さんから声がかかった。
「70歳にもなったんで、ギターを店に持ってきて練習してるんですよ」

え、ここにあるんですか。見せてください!

頼み込んで、ギターを手にしてもらった。さすがは元歌手。サマになる。じゃらんと鳴らすと、ファンから頼まれても決してつまびかなかったギターの音色が店内に拡がった。

30年ぶりに蘇った姿


ギターや歌をまた楽しむ気になれたのだとしたら、大きな心の変化だなあ。きっと渡邊さん、封印を解いてもいい頃だと思ったのだ。吹っ切れたのだ。

歌手になりたくて福島県の田舎から上京した18歳の少年は、中央線沿いの飲み屋で流しの歌手になった。しかし、22年後、町中華の店主に転身し、歌をあきらめる。青春の思い出が詰まったギターをもう一度弾こうと思ったのは、懐かしさからだけではないだろう。自信があるからだと思う。いくら弾いても歌っても、「丸幸」のオヤジである自分の気持ちは揺らがない。

そして、おそらくこうも思っている。
あのとき、「ラーメン屋」になると言ってよかったな、と。

後継者になるはずだった息子さんが考案した
直筆のヘルシーメニューが今も大切に使われている。


ご愛読いただき、ありがとうございました。
本連載は、集英社インターナショナルより単行本として刊行される予定です。

北尾トロ(きたお・とろ)
ノンフィクション作家。1958年福岡県生まれ。2010年にノンフィクション専門誌『季刊レポ』を創刊、15年まで編集長を務める。2014年より町中華探検隊を結成。また移住した長野県松本市で狩猟免許を取得。猟師としても活動中。著書に『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』(文春文庫)、『欠歯生活』(文藝春秋)、『恋の法廷式』(朝日文庫)、『いきどまり鉄道の旅』(河出文庫)など多数。共著に『町中華とはなんだ』(立東舎)などがある。最新刊は『猟師になりたい!②』(角川文庫)。



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