一億総貧困時代

雨宮処凛

一億総貧困時代


5

介護離職から路上へ、
そして路上から支援者へ

 現在、介護を理由とする退職者は年間10万人にのぼるという。厚生労働省のホームページ中の親切なアドバイスによるまでもなく、介護の基盤は「経済力」である。しかし、介護は突発的な事態がまま生じ、またその期間も予想がつかない。仕事との両立は、育児に比してもさらに難しいということだ。たまたま運よく正規社員であり、会社に介護休暇という制度があったとしても、「人に迷惑をかける」という思いでそれを十分に利用できないまま退職してしまう人も多いと聞く。
 今回は、ご両親の介護をきっかけに某大手百貨店を退職し、そのあとさまざまな不運を重ねていらしたものの、なんとか命を繋いでこられた男性に、雨宮さんとともに長い時間、お話を伺った。
 親の介護という事態を迎えたとき、介護者の年齢は。そしてそのとき、仕事は、自身の生活は、体調はどうだろうか。高齢化の時代、そして非正規率と未婚率のさらなる上昇が予測されるこの時代、今回のテーマを他人事と思える人がどれだけいるのだろう。

「生活保護受給者」バッシング――高野さんとの出会い

 2009年8月、高野昭博さん(61歳)は母親の遺骨と少しの衣類を持ち、飼い猫・チビを抱えて長年住んでいたアパートを出た。家賃を滞納し、この時点で全財産は1万5000円。向かった先は、近くの公園。
 54歳だった彼が「ホームレス」になった瞬間だった。

 私が高野さんと出会ったのは、今から5年ほど前だろうか。
 生活保護への誤解を改める主旨の集会だった。
 当時、生活保護は「過去最高」の200万人を突破し、同時にバッシングの機運が高まっている頃だった。不正受給が多い、働けるのに怠けている等々。実際は、不正受給は2パーセント以下。そして生活保護を受けている人の約8割が高齢者世帯、障害・傷病世帯を占めるので「働けるのに怠けている」は事実に反する。が、メディアはそんな基礎的なデータもなかなか報じず、一方でネット上には生活保護受給者に対する心ない言葉が溢れてもいた(今もそうだが)。
 そんな中、高野さんは現役の「生活保護受給者」として集会で発言。メディアに顔も名前も晒して自らの経験を語った。
 百貨店に正社員として勤務していたものの、親の介護で仕事を辞めたこと。親を看取った後、路上生活になったこと。そこから脱却し、生活保護を受けていること。そんなことを訥々と語った彼とは、以来、生活保護や貧困問題を巡る集会で顔を合わせるようになる。
 そうして気がつけば、彼は「生活保護受給者」ではなく、路上生活などを強いられる生活困窮者の支援者になっていた。住んでいる埼玉の地で多くのホームレス状態の人に声をかけ、生活保護に繋ぐなどし、その後も細やかな支援をする。
 当事者から、支援者へ。そして現在は、「支援」が仕事にもなっている。
 今や現場に欠かせない貴重な「戦力」となった彼に、話を聞いた。

母の脳梗塞と父の喉頭がん

 高野さんが生まれたのは東京。子どもの頃に埼玉に越してからは、今に至るまで埼玉で暮らしている。
 そんな高野さんが高校卒業後に就職したのは、誰もが知る大手百貨店。都心の百貨店の食料品部門に配属され、退職するまでの26年間、働いた。物産展やフェアなどの企画も手がけていたという話からは、充実した仕事ぶりがうかがえる。社会人となって付き合った女性は何人かいたものの、結婚には至らなかったという。
 そんな高野さんに転機が訪れたのは30代後半。両親と兄の4人暮らしだったのだが、母親が軽い脳梗塞を起こしてしまったのだ。もともと身体が強い方ではなかったという母親の右半身には麻痺が残り、言語障害も伴う。そんな母親の面倒を看たのは、座椅子職人だった父親。
「私は会社に朝8時前に入って、毎日夜12時過ぎくらいまで働いてましたから。だから本当に寝に帰るだけですよね。その後、親父が定年になってずっと家にいるようになって、お袋の面倒を見てくれていたんですけど、どうも親父の様子がおかしいということに気がついた。食が細くなって、咳き込むようになったんです」
 病院に行くと、喉頭ガンが発覚。しかも、かなり進行しており、即、入院。生存率50パーセントの手術は無事成功し、声帯をとったものの病気は快方に向かっていった。しかし、高野さん一人に入院中の父親の世話と自宅にいる母親の世話、そして仕事がのしかかる。兄はすでに家を出ていて、その後ほとんど家に寄りつかず、連絡も途絶えがちだった。
「入院中の父親の身の回りのことをして、家に帰ったら母親に食事を作って。親父が入院した時に会社の上司に相談したんですよ。定休日と、ほとんど取れなかった公休日をとって病院に行きたいと。それで週に2日は病院、4日は出勤みたいな割合でやってたんですけど、日が経つにつれ、だんだんそれが逆転していっちゃって……」

休職、退職、そして父の死

 そうして高野さんは「休職願い」を出す。44歳。役職は課長になっていた。
「休職してからも、週に1、2度は会社に顔を出すわけですよ。そうすると雰囲気が違う。もう、自分のデスクは隅っこの方に行ってるし、最終的にはなくなってました。でも、介護はエンドレスなので、休職期間が『いつまで?』と言われても『わかりません』としか答えられない」
 結局、休職してから半年で、高野さんは退職することになる。
「その当時、うちの会社は社員を2000人減らすということで自由退職者を募っていたんですよ。デスクもなくなって居づらい雰囲気になっているのと、このまま無理してぶら下がっていてもいいのかな、みたいな思いもありました。でも何より、自分の中で後悔したくないという気持ちが圧倒的に強かった。思えば、子どもの頃から両親に怒られた記憶がないんです。なんでも自由にやらせてくれた。そういうのがあったので、自分の中で、親父が生きるか死ぬかわからないって時に後悔したくなかった。それに当時は貯金もあったし、余裕があったから」
 ちなみに休職期間中には給料の6割が支払われていたのだが、その額は40万円。さすが大手百貨店である。
 そうして2000年、高野さんは退職。が、退職してわずか2週間で父親は他界。
「その時は魂が抜けた状態で、ポカーンとなっちゃって……。でも、それまで介護はエンドレスだったので仕事を探せなかったわけですよね。それでまず仕事を見つけてやろうと」
 そんな頃、百貨店時代に縁があったスポーツ用品店の社長が声をかけてくれた。仕事内容は、スキー用品の仕入れ。スキーの資格を持っている高野さんにはうってつけの仕事だ。そこでは5年間働くものの、経営が傾いてしまう。
「人員削減を始めたんですよ。年配の人から切っていってね。僕は社長の傍にいたから来なかったんだけど、最後まで残っちゃってね。若い人たちから『なんであいつだけ残ってるんだ』っていうのもあったけど、結局、自分で判断して辞めちゃうわけですね。人を切る大変さを見ていたこともあって。『今回は身を引かせて頂きます』って」
 父親が亡くなった時点で、葬儀代と墓代で850万円使っていた。が、まだ貯金は1千万近く残っていたという。しかし、スポーツ用品店を辞めてからは、とにかく仕事が見つからない。年齢は、50歳になっていた。
「ハローワークで検索すると、年齢不問とか書いてあるんですけど、実際電話をかけると35歳までとか40歳までとかで、書類がどうのこうのっていう以前に落とされちゃうんですよ。結局、能力なんかに関係なく、年齢で落とされちゃうんだなって」

再就職、給料遅配、母の死

 仕事が決まらず焦っていた頃に偶然会ったのが、高校時代の友人だった。仕事を探していると言うと、「うちでトラックの運転手をやらないか」という誘い。高野さんはすぐその話に乗る。
 そうして05年、高野さんはトラック運転手となった。
「埼玉の川口の工場と、千葉の野田の工場を行き来する定期便です。1日2〜3往復して、1往復いくらみたいな。品物は鉄の歯車で、重いんですよ。フォークリフトで自分で積んで、自分で降ろして、戻ってきてまた自分で積んで降ろして。その繰り返しですね」
 年収は200万円ほど。そんな会社で給料が遅れ始めたのは、仕事を始めて1年半経った頃だった。月末締めの10日払いだったのが、15日になり、20日になり、1か月も遅れるようになっていく。転職を考えるが、日中は働いているのでハローワークに行くこともできない。「これは駄目だ」と思い始めた頃、別の友人が声をかけてくれた。川口にあるオートレース場の売店で働かないかという話だった。
 高野さんはその話に乗り、働き始める。オートレースは毎日開催されるわけではないので、レースがない日は運転手の仕事を回してもらった。貯金を少しずつ切り崩しながらやりくりする日々。そんな頃、母親が訪問販売にひっかかってしまう。それも、何度も。
「仕事に行ってる間は母親が家に一人なので、訪問販売が来たら、判子押しちゃうんですよ。80万円の布団とか、ネックレスとかね。おふくろも年金ありましたけど、ひと月に何回もやられちゃうんで、貯金が減るのも早かったですね。今思うと、多少認知症は入っていたと思います。最後の方は徘徊もしてましたし。そんなことがあって、多い時でひと月100万円を超えていた。クーリング・オフもできない状況になってたんですよ。なんとか阻止しなきゃって判子を取り上げたんですけど、こっちがかなわないですよね。いくら働いてもね。それでも、当時はちゃんと家賃も払えていたし、公共料金も税金も滞納しないで払えていたんですよ」
 そうして売店の仕事を始めて1年後、母親が他界。朝、ご飯を食べさせようと起こしに行くと、冷たくなっていたという。
 葬式は、200万円ほどで出すことができた。しかし、その時点で本当に貯金が底をついてしまった。母親の遺骨を納骨するお金もないので仕方なく自宅に安置した。

全財産は1万5000円と寝袋、母の遺骨と猫のチビ

 母の死後も、高野さんは売店での仕事を続ける。が、ただでさえ収入は低い上に貯金はゼロ。生活は更に苦しくなっていく。そうして1年が経った頃、またしても給料が支払われない事態が発生。未払いが3か月分溜まった頃、直談判しようと社長の家に行くと、そこはもぬけの殻だった。夜逃げしていたのだ。
「その瞬間、頭が真っ白になっちゃって。これから俺はどうするんだって。でも、そうは言ってられないからハローワークに行くんですよ。だけど、なかなか仕事は見つからない。そのうちに大家から、『家賃を滞納しているから鍵を変える。出ていってくれ』って言われて」
 今思えば、その時点で「生活保護を受ける」という方法があった。そうすれば、路上にまで行くことはなかった。しかし、多くの人は働いている自分が生活保護の対象になるなど思ってもいない。結局、大家さんに「家具などを全部出してから出ていけ」と言われた高野さんは、3日がかりで大家さんから指定されたアパート裏の敷地に荷物を出す。そうして2009年8月11日、母親の遺骨と少しの衣類、寝袋を持ち、猫のチビを抱えて長年親子で住んでいたアパートを出た。その時の全財産は1万5000円。
 高野さんが向かったのは、川口駅の西口にある大きな公園だった。以前から、そこに多くのホームレス状態の人たちが住んでいることは知っていた。
「どこに行ったらいいかわからないけど、そこに行けば寝れるかな、みたいなね」
 そうして高野さんは、ひっそりと公園の住民になる。
「同じホームレスの人でも、お互い言葉を交わしたりはしないです。寝たのは、公園のベンチ。1個だけ日除けがないのがあったんですよ。木に囲まれた目立たないところだったので、天気のいい日はそこで寝ました。雨が降ると、西口と東口を繋ぐ地下道で寝ました。両サイドが遊歩道になっていて、僕が行った時にはすでに両側に十数名ずついました。それで、だんだん寒くなってくるから、地下道の比率が高くなってくる。1万5000円はすぐになくなりました。猫にも食べさせないといけないし」
 チビは寝る時は寝袋に入れ、日中は紐で繋いでずっと一緒にいたという。
 そんなある日、高野さんはホームレス状態の人からお弁当を貰う。
「1回も口を利いたことのない人が、ポンっとお弁当をくれたんですよ。聞いたら、コンビニの賞味期限切れのを夜中に取りに行ったと。これを近くのスーパーのレンジでチンして温めれば食えるからって。それから、自分もその人と一緒に弁当を取りに行くようになって。でも、同じ目的を持った人が当時はたくさんいたので、奪い合いになっちゃうんですよ」
 2009年と言えばリーマンショックの翌年だ。年越し派遣村で年が明けたこの頃、路上で生活する人は目に見えて増えていた。
「そこのコンビニは、我々が取りに行くことを承知で出してくれてました。だから、多い時は一人10個くらいになることもあった。あと、毎週日曜日の朝には、教会の人がお弁当を持ってきてくれたりね。それだけじゃなく、今で言う貧困ビジネスの施設の人たちも来ました」

<貧困ビジネス>が迫ってくる

「貧困ビジネスの施設」とは、悪質な無料低額宿泊所のことだ。ホームレス状態の人に生活保護を受けさせ、保護費をピンハネする。住環境は劣悪で、仕切りで区切った一人あたり2〜3畳ほどの部屋に押し込められる。とりあえず路上で餓死することはないが、家賃や食費などの名目で保護費を多く取られてしまうので、就職活動もままならない。埼玉にはそんな施設がいくつもあり、中には数百人を抱えるところもあるそうだ。
「朝の4時くらい、ネクタイをしたサラリーマン風の二人組が来て、生活保護を受けないかって誘いにくるんですよ。『寝るところあるよ』『食べるものあるよ』って。そういう人についていくと、二度と出て来られないって噂が立ってたので、ついていくことはなかったです。その時間帯が過ぎると、6時半くらいからは手配師が来るんですよ。『働かないか』って。僕はそこにも行かなかったです。行ったって人に話を聞くと、『1日働いて2000円くらいしか貰えなかった』って話も聞いていたので。それに、猫もいるし」
 高野さんの話を聞きながら、「貧しい人を食い物にする貧困ビジネス」の熱心な勧誘に驚いた。朝早くから声かけなどの「営業」をするほど「儲かる」のだろう。一人あたりひと月に数万円程度の保護費のピンハネでも、100人もいればすごい額になる。
 しかし、ある日、高野さんはそれまでとは印象の違う人たちに声をかけられる。彼に声をかけたのは、生活困窮者を支援する「反貧困ネットワーク埼玉」のメンバーたちだった。そしてその奇跡的な出会いが、高野さんを路上から救い出す。
「男性二人に『こんにちは、大丈夫ですか』って声をかけられたんですけど、逃げたんですよ、俺(笑)」
 路上にいる自分に声をかけてくる人=貧困ビジネスの人、という意識が高野さんの中に根強くあった。
「西口の公園から東口に逃げて。東口側にも大きな公園があるんだけど、そこにもまた同じような人がいるわけですよ。貧困ビジネスの人なのかどうなのか、自分はそれを判断できない。そうしたら、今度は女性三人組が声をかけてきたんですよ。それで『あれ? ちょっと違うぞ』と」

路上から生活保護申請、そしてアパートに

 そうして高野さんは、反貧困ネット埼玉の人たちの話を聞いてみることにした。その時に初めて、具体的な生活保護制度のことや、自分が保護の対象になるということも知ったという。
「それでも半信半疑です。税金滞納してるしさ。そういうのを追求されるんじゃないかと思ったり。そんなことを言うと、『今ここに弁護士さんがいるからお話を聞いてみませんか』ということになって」
 反貧困ネット埼玉では、弁護士も夜回りに同行するのだから素晴らしい。
「そうしたら、『明日、市役所の福祉課の前に朝10時に来てください』って言われたんです。それでも自分はまだ半信半疑ですね。それで、一人で行くのが嫌だったので、今まで一言も口を聞いたことのないホームレス状態の人たちに自分から『こういうのがあるんだけど行ってみない?』って声かけて、結局、次の日、10人くらいで行ったんです」
 そうして翌日、生活保護の集団申請が行われた。ちなみに「ホームレスだと生活保護が受けられない」という間違った認識はいまだにあるが、そんなことはない。住所がなくても生活保護は当たり前に受けられる。
 さて、高野さんたちの集団申請はどのように進んだのだろう。
「一人一人役所の人と面談して、いろんなこと聞かれて……。それで、誰かが面談してるあいだ、他の人たちは待合室で待ってるんですよ。そうしたらそこに、不動産屋が来ていたんです」
 生活保護を受けるにあたっては、住む場所を見つけなければならない。が、生活保護では家賃の上限が決まっている。ということで、生活保護でも入れる物件を紹介してくれる不動産屋を反貧困ネット埼玉がわざわざ呼んでくれていたのだ。素晴らしく迅速な仕事ぶりである。
「それで待っている間に、不動産屋が間取り図を見せてくれて、『この中から好きなのをどうぞ』と。でも、自分は猫がいるじゃないですか。それが心配だったんですけど、その情報もちゃんと伝わっていて、ペット可の物件も探してくれていたんです」
 前日の深夜に出会い、朝10時にこのセッティング。反貧困ネットワーク埼玉、まさに神対応だ。半信半疑だった高野さんの中に、「この生活から脱出できるかも」という実感がどんどん膨らんでいく。その上、役所からはその日、1万5000円が渡された。生活保護を申請した時点で所持金がない場合、数日分の食費などが渡されるのである。
 さて、それからどうなったのかというと、「路上待機」である。「アパートに入れるかも!」というテンションになってからの路上での待機。その間の高野さんの気持ちを思うと、なんだか「生殺し」というか、身悶えしたくなってくる。
 しかし、路上待機は4日で終わった。役所で生活保護を申請してから4日後、高野さんは無事にアパートに入居。09年11月20日のことだった。8月11日にアパートを出てから、3か月以上が経っていた。高野さんは当時の喜びを噛み締めるように言った。
「部屋には何もないけれど、安全は確保されるし、暖房も効いてるしエアコンもある。本当に、また元に戻れるんだって。『次の命を貰った』みたいなね。だって、ホームレスだった時、俺の目の前で何人が死んだか」
 高野さんの表情が曇った。
「自分の目の前で、いきなり血をバーッと吐いて倒れて亡くなった人もいるし、電車に飛び込んだ人もいます。駅のホームをぼんやり見ていたら、大きな荷物を持った、どう見てもホームレス状態の女性がいて。電車が来たら乗るじゃないですか。でも、乗らないんですよ。で、見ていたら、飛び込んじゃった。全部見ちゃったわけですよね。その時が一番堪えましたね。いつか自分もこうなっちゃうのかみたいなね……。足がガクガク震えちゃって。それなのに、周りにいるサラリーマンたちが『電車止めやがって』って大きい声で言ってるんですよ。そこで命がひとつなくなってるのに」

チビの死と、原因不明の身体の痛み

 ホームレス時代の高野さんも、「生きられる」リアリティを失った時期があったという。
「11月にもなると、夜中、メチャクチャ寒いわけですよ。寒すぎて寝れないから、皆さんどうしているかというと、街を夜じゅう歩き回って、昼間は図書館とかで仮眠をとるみたいな。でも俺、猫がいるからどこにも入れないんですよ。だからずっと公園のベンチで座ってて。携帯ラジオだけ持ってたので、天気だけ聞いてましたね。そのラジオのコマーシャルで、何月何日にこういう催しがあるよって流れたりするじゃないですか。そういうの聞くたびに、自分はそこまで生きられるのかなとか、そんなことばっかり思ってました」
 そんな高野さんが無事に入ったアパート。共に3か月以上の路上生活を耐え抜いた同志である猫のチビも、それは嬉しそうだったという。
「安心しきったのか、すごい甘えてきましたね」
 しかし、チビはアパートに入って1か月も経たないうちに病気で亡くなってしまう。
「糖尿病でした。気づいた時には手遅れで。病院に連れていったんですが、まだ生活保護の決定が下りる前だったからお金がない。事情を話して、支払いは後にしてもらいました」
 酸素ボンベをつけながら治療に耐えたチビは、病院で亡くなった。久々の室内での生活にほっとしたら、病気が出てしまったのだろうか。
 部屋に入ってからは、高野さんも原因不明の症状に悩まされた。
「入居後1か月くらいの時、左半身の痛みが出ました。首も曲がらなくなって、手も上がらなくなって。病院に行っても原因不明。それが3か月くらい続きましたね」
 3か月以上に渡る路上での生活は、おそらく本人が思うよりも身体を蝕んでいたのだろう。路上では決して病気になれないと気を張っている分、部屋に入って安心したら一気に心身の不調が出たという話は耳にしたことがある。

支援者デビュー

 さて、生活保護の申請をしてから約1か月後、無事に保護が決定する。しかし、高野さんには気になることがあった。それは、まだ路上にいる人々。
「自分はアパートに入ったけれど、周りにはまだいっぱいいたから、その人たちに声をかけようと思って。まぁ、感謝という気持ちもありましたね。それが自分が支援活動を始めた最初です。まずは大宮にいた9人くらいを反貧困ネット埼玉に紹介して生活保護に繋げて。あと、川口に20代の娘さんとその母親がホームレス状態になっていたので、なんとか正月は屋根のあるところで、って年末に役所に連れて保護に繋げたり。自転車でいろんなとこを回って『あそこにこういう人がいる』ってチェックして、みんなで夜回り行ったりとか」
 完全に活動家である。そんな活動をしながらも、ハローワークに行って仕事探しもしていた。しかし、やはり「年齢の壁」は厚い。生活保護のケースワーカーは、「○○日までに仕事を探さないと生活保護を切る」という突き上げもしてくる。
 そんな時、高野さんの支援で路上を脱出した人が、せっかく手に入れた部屋を飛び出してしまう。理由は、ケースワーカーからの「早く仕事に就け」という、脅しにも似た「厳しい就労指導」だった。
「悩んで飛び出してしまって、でも、その後戻ってきたんですよね。少し雰囲気が明るくなって。でも、今考えるとそれが危険だった。それでまたいなくなって、1週間後に警察から『こういう人を知ってるか』という電話がありました。着信履歴からかけてきたそうです。『知ってます』と言うと、『荒川で首を吊っていました』って」
 彼だけでなく、支援を続ける中で、高野さんは多くの人の死にも向き合ってきた。
 2012年、芸人の親が生活保護を受給していたことをきっかけに生活保護バッシングの嵐が吹き荒れた際にも、高野さんの周りでひとつの命が失われた。生活保護を受けていた女性だった。当時、自民党の片山さつき氏などが「生活保護を恥と思っていないことが問題」などと繰り返し、バッシングに便乗した一部テレビ番組の中には、「生活保護受給者の監視」を呼びかけるものまであった。
「彼女は『怖くて買い物にも行けない』『外に出られないから買い物に行ってほしい』と言ってました」
 そうして、みずから命を絶ってしまったのだ。あのバッシングの際には、私のもとにも多くの受給者から切実な声が寄せられた。「死ね、と言われている気がする」「社会のお荷物で、生きていることを否定されている気がする」等々。バッシングは、こうして実際に人の命を奪っている。しかし、この国のほとんどの人、そして心ない報道をしたメディア、政治家は、そんなことなど知りもしないだろう。
 また、高野さん自身が路上で声をかけ、生活保護に繋げた42歳の女性の遺体の「第一発見者」になったこともある。
「夜回りしていたら、その人はまさに俺が寝ていたところにいたんですよ。それで、女性だから危険だということですぐに生活保護に繋いだんです。保護を受けた後も、すごく真面目な女性で支援活動も手伝ってくれていました。でも、突然ひきこもるようになってしまって。躁鬱になってしまったんですね。ケースワーカーには『人に会いたくない』『表に出たくない』って言ってたらしいんですけど、俺が電話すると明るいんですよ。だからあまり心配してなかったんだけど、ケースワーカーから電話がかかってきて『今月、保護費を取りに来ていない』と。何回電話しても出ないし、行っても出てこない。最後の手段でケースワーカーと不動産屋とお巡りさん呼んで。でも、鍵は開けたけどチェーンロックがかかってたのでレスキューも呼んで、チェーンを切って入った。それで警察がベッドまで行って顔を見た瞬間、『はい、ストップ』って。亡くなってました。あとでわかったけど、薬とかを飲んでたわけじゃない。いわゆる餓死状態です」
 検死の結果、死後1週間から1か月だったということがわかったという。
「一番ショックだったのは、窓とか扉とかに、全部ガムテープで目張りがしてあったんです。ああ、もうこれは社会と断絶したかったんだなって思って。自分は自死だと思ってます。やっぱり、生活保護受けてから精神障害になる人がすごく多いんですよ。ホームレスだった人が、安全と部屋と食べ物が確保されても、やっぱり一人なんですよね。みんな、承認の部分で蠢いている。だいたい、孤独死や自死が起きるのって、生活保護受けてから2〜3年なんですね。これはもう確実に言えます。1年目は頑張るんですよ。2年目になると自問自答が始まって、3年目が分かれ目ですね」

「気にかけてくれている」人の存在

 そんなことがあって高野さんが必要性を強く感じたのが、当事者たちが集まって喋ったり一緒に食事をしたりできる場だ。現在、月に一度集まって喋ったり食べたりする「つながりカフェ」を開催。当事者30人ほどが集まり、生活上の相談をしたりゲームをしたり、医療関係者が来る時には健康相談にも乗ってもらえる。当事者それぞれに役割があり、責任がある集まりだ。そんなつながりカフェに関わる中で、変わっていった人もいるという。
「親と一緒にホームレス状態だった20代の女の子なんかは、生活保護を受けたあともなかなか目標がなくて自暴自棄だったりしたんです。でも、当事者の集まりで司会をしてもらったり、いろんなことをやってもらったら、どこかでスイッチが入ったんでしょうね。自己肯定感も欲も何もなかったのが、目標を持ち始めた。それで仕事を見つけたんです。今、彼女は生活保護を抜けて自立しています」
 彼女は、高野さんがすでに生活保護を脱却していることを知っていた。身近なモデルほど、近い未来を具体的に描ける存在はないだろう。
 さて、それでは高野さんはどういう経緯を辿って生活保護を脱却したのか。
 年齢が壁となってなかなか見つからなかった仕事。それだけではない。一度など、面接までこぎつけ、採用がほぼ確定となったのに断られてしまった。理由は、高野さんが正直に生活保護を受給中だと告げたこと。
「人の金で飯食ってる奴は、うちでは雇えない」と言われたという。
「悔しいというか、自分が情けなくなっちゃって……」
 そうしてなかなか仕事が見つからない中、起きたのが東日本大震災。高野さんがまずやったのは、自分が関わる生活保護受給者に電話をかけること。100人以上にかけたという。
 ここで思い出してほしい。3・11直後、あなたには何人の人から電話があっただろうか。被災地かそれ以外かにもよると思うが、東京に住む私のもとには家族から電話があった。当日、岩手に行く予定がキャンセルになっていたため、安否を確認する出版社からの連絡もあった。それ以外にも、東京で水などの物資が少ない状況を心配し、何か送ろうかとメールしてくれた関西の知人もいた。
 しかし、あの時、誰からも一本の電話も入らない人がいたことも事実だ。高野さんが関わる生活保護受給者の中には、家族との縁も切れ、友人もなく、自分を気にかけてくれる人の不在に孤独を深めた人もいる。たかが電話。されど電話。高野さんの一本の電話を、みんな喜んでくれたという。
「やっぱり、電話とか、あとハガキが届くこととかも嬉しいんですよ。自分の存在がそこにあるってことをわかってくれてる人がいるだけでね」

「生保」卒業から支援者へ、そして

 さて、震災後、高野さんがしたのはそれだけではない。当時、さいたまスーパーアリーナは、原発事故被災者の避難所となっていた。反貧困ネットワーク埼玉は、そこでボランティアで相談業務をすることを決定。反貧困ネット埼玉の弁護士に「手伝ってくれ」と言われて、高野さんも相談業務に加わる。これほど「戦力」となる元当事者がいるだろうか。
 そうしてさいたまスーパーアリーナに通い、そこにいた人々が違う施設に移ってからも相談業務を続けた。完全にボランティアで、往復交通費2000円は自腹。限られた生活保護費の中、やりくりしながら被災者の支援を続けたのだ。
 そうしているうちに、震災支援をしているNPOに助成金が下りるようになる。このことによって、高野さんは月10万円の収入を得るようになった。このような場合、生活保護費は収入分に応じて減額される。
 そんな被災者支援が、高野さんの今の仕事に繋がった。スキルを買われて、相談業務を専門とする団体の職員に採用されたのだ。福島の助成金と合わせて収入は24~25万円に。そうして12年7月、高野さんは、生活保護を卒業した。生活保護の利用は2年と7か月。現在は、震災後の助成金はなくなったものの、生活困窮者を支援するNPOのスタッフとしての収入も得ている。
 現在は日々、相談を受け、時に生活保護の申請に同行したり、病院の通院に繋げたり、DVで逃げてきた女性をシェルターに繋いだりと、八面六臂の活躍だ。
「おかげで随分いろんな制度のこと覚えましたよ。社会福祉士の資格は持ってないけど、周りがそういう資格持ってる人たちばかりなので」
 介護離職をきっかけに路上に行き、そして支援を受けたことで自らが今、あまりにも貴重な社会資源となっている高野さん。やはり、活動を続ける動機は「感謝」なのだろうか。
「最初は感謝の気持ちだったんですけど、今はあんまりそう考えてなくて、やっぱり『世の中はおかしい』って思ってる。制度も含めてね。制度って、ものすごくあるんですよ。ただ、それを知らない。あくまでも申請、こちらから行かなくちゃいけない。まずそこからおかしいですよね。これだけ使える制度があるのに、なんで結びつかないのかって。やっぱり自分を守るのは情報ですよ。自分が知ることによって、周りを助けることもできる。俺はたまたま介護離職がきっかけだったけど、誰しもが経験することじゃないかと思ってます」
 最後に、高野さんはやっぱり「感謝」の思いを語った。
「周りの弁護士の先生たちにも言ってるんですけど、自分はすごく恵まれているんですよ。弁護士の先生たちがちゃんと先を考えて、道筋を考えてくれたから、ここまで来られたと思うんですよ。それと、生活保護を受けている間も、いろいろと動く場があった。だから精神的に折れないで来られたのかなと思います」
 父親を見送り、母親を見送り、猫のチビも見送った高野さん。親の介護によって離職したわけだが、高野さんが親を語る時の口調は常に優しいのが印象的だった。そして、自分が大変なのに、飼い猫を決して手放さなかった高野さん。
 底抜けに優しい高野さんのような人が、損をしてしまったりバカを見る社会は嫌だ。見捨てられる社会は嫌だ。

 高野さんの話を聞きながら、私はある光景を思い出していた。
 それは年越し派遣村の翌年の年末年始。ホームレス状態にある人々の支援の現場での光景だ。
 新宿の公園に作られた相談ブースには、様々な人が訪れた。派遣切りで寮を追い出され、3日間、何も食べていないという倒れそうな男性。親の虐待の果てに家を飛び出し、12月の新宿で野宿を強いられている20代の女性。
 その中に、猫を連れた若いカップルがいた。それまで住んでいた場所を失い、カップルでホームレスとなっていた二人は、猫のケージをカートに積んで運んでいた。不安そうなカップルと、やはり不安そうな猫。猫を連れての路上生活は、どれほど大変だっただろう。それでも、2人は猫を手放さなかったのだ。彼らは相談会に来たことにより、無事、支援に繋がった。
 今も時々、あのカップルと猫を思い出す。途方に暮れたような二人の目を思い出す。あの二人と猫が、幸せでありますように。2匹の猫と暮らす身として、心から思う。小さな命が見捨てられない社会は、きっと誰にとっても居心地のいい社会だと思うのだ。




Profile

雨宮処凛(あまみや・かりん)
1975年、北海道生まれ。愛国パンクバンドボーカルなどを経て、2000年、自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)を出版し、デビュー。以来、若者の「生きづらさ」についての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。 06年からは新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題や貧困問題に積極的に取り組み、取材、執筆、運動中。反貧困ネットワーク世話人、09年~11年まで厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員を務めた。著作に、JCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞した『生きさせろ!難民化する若者たち』(ちくま文庫)、『ロスジェネはこう生きてきた』(平凡社)、『14歳からわかる生活保護』『14歳からの戦争のリアル』(河出書房新社)、『排除の空気に唾を吐け』(講談社現代新書)、『命が踏みにじられる国で、声を上げ続けるということ』(創出版)ほか多数。共著に『「生きづらさ」について 貧困、アイデンティティ、ナショナリ
ズム』(萱野稔人/光文社新書)など。


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